深淵 The gulf
番外編 小夜風










 成婚から八年近くが経っていた。
 もう誰もが王妃が世継ぎを産むことを諦めていた。貴族たちの中には、国王に自らの娘を引き合わせたり、高級娼婦を宛がおうとする者もあった。どうにかして夫妻の結婚を無効にしようと必死な輩までいた。
 冬の終わりの朝のことだった。
 いつもなら決まった時刻に国王の寝室を出、自室に戻ってくるはずのアトラインが現れない。不審に思った女官長が、王妃の寝室側から隠し扉を開けた。ブリシカも彼女の供をして、狭い通路に入った。
 道々には暖炉が置かれ、眩しいほどに灯りが灯されていた。狭く窓が小さいだけで、表の廊下とほとんど変わるところはない。そのはずなのに、ひどく篭もった空気だった。
 二人が通路の中ほどに至ったとき、女官長が前を見て声をあげた。
 上階へ続く踊り場で、アトラインが手すりにもたれるようにしゃがみこんでいた。
「アトリーさま!」
 ブリシカは階段を駆け上がっていた。
 身を屈めて覗き込めば、アトラインはぼんやりとした目でブリシカを見上げてきた。
「ブリシカ?」
「いかがなされましたか? どこか――」
「なんでもない、ただの貧血よ。休んでいただけ……」
 掠れた声でそれだけ言って、アトラインはブリシカの胸の中に顔を伏せた。ガウンの襟から細い首筋が覗いた。かたちのよい鎖骨の下に、真紅の薔薇の花弁のようにいくつも鬱血が浮いていた。いつも目にしているはずなのに、ブリシカはなぜか見てはならないものを窺いみた気になった。
 情事の痕は、国王のアトラインへの執心を示すように、消える間もなく増えていった。国王はアトラインの外での公務に反対こそしなかったが、彼女が王宮にいる間は、宵の口から寝室に引きずり込んで帰さなかった。ブリシカには、それがアトラインの体力を奪うための行為のように思われてならなかった。
 危うげな場所に付けられたものを隠すために、アトラインとブリシカは長年腐心を重ねていた。特に、人と会うことが多くなってからは、透ける素材を避けたり襟の詰まったデザインに凝ったりと、着るものを選ぶ苦労が多かった。
「お部屋に、お部屋に連れて行って」
 アトラインの命令に、背後で女官長が頷いた。ブリシカはきっと目を上げた。
「あんまりです。お休みにならなくては、お体がもちません」
「いいのよ。今日は朝から、陛下と謁見の間に――」
 女官長がアトラインの言葉を遮った。
「今すぐお帰りいただきます。謁見にもおいでいただきます。ですが、御典医に診ていただいたあとにです」
 毅然と告げた女官長は、ブリシカを促してアトラインの介添えをさせた。
 部屋に戻ると、すぐに典医が呼ばれた。
 長い診察を終え、壮年の典医は、女官長にだけ小さく何か耳打ちをした。
 いつも無表情を崩さない女官長が、ブリシカの見たこともない表情をしていた。
 アトラインは懐妊していた。










 事実は内々にされた。
 アトラインの体調が思わしくないこと、まだ赤子が二月に満たないことがその理由だった。
 国王は、臣下とともにする昼食を中座してアトラインの部屋を訪問した。
 彼は正面からやって来た。
 ばたばたと慌しい足音が聞こえ、幾つも扉が開く音がした。
「アトライン!」
 年齢を重ね、威厳を漂わせるいつもの立ち居振る舞いの影もなかった。肩で息をしながら、彼はしばらく寝室の入り口で立ち尽くしていた。
 アトラインは寝台の上で昼食を採っている最中だった。
 彼女は国王の姿を認め、匙と皿とをそばの給仕に任せた。寝台から降り、部屋履きに小さな足を入れ、ゆっくりと彼に歩み寄る。
「……アトライン」
 彼が陶然と呼ぶ。
「陛下」
 か細い手を寝巻の腹の上にやり、彼女は控えめにはにかんだ。
 心の底では、アトラインは子供を産みたかったのだ。諦めきれず、それでも身ごもれない悲しみを紛らわすように公務に専念していたのだ。
 ブリシカは気づけなかったおのれを恥じた。
「陛下、赤ちゃんができました」
 そのときのアトラインの微笑みを、ブリシカは生涯忘れまいと思う。
 国王は呆然としたままだった。
 アトラインが彼に駆け寄り、ふわりとその胸に飛び込んだ。
 ブリシカには、国王の表情は窺い知れなかった。
 彼の腕がぎこちなく動いて、アトラインの背をおそるおそる抱いた。
 ブリシカはそっとその場を離れた。誰もいない控えの間で、ひとり喜びに咽んだ。










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