深淵 The gulf
番外編 小夜風
11





 国王は、次の日の朝に崩御した。
 父と息子が言葉を交わす機会は訪れなかった。
 国王が逝去したあとに、アトラインが故郷に帰ることはなかった。
 彼女は、グラニスが即位するのを見届けて間もなく、北の離宮に隠居した。
 ブリシカはアトラインに乞われ、国王付きの侍女として王宮に残った。
 夫が亡くなってからの十年近く、アトラインが北の離宮でどのように過ごしていたのか、ブリシカには推し量ることしかできない。
 ブリシカは自分の役目を全うするまで、アトラインには会えないと思っていた。グラニスが結婚し、子供をもうけるのを見届けるまで、アトラインには会わない。その誓いはグラニスの命令により形を変えてしまったが、それでもブリシカは危篤の床にあるアトラインに会いに行けなかった。
 頑なに思いつめていたブリシカの心をほどいたのは、アトラインによく似た娘だった。
 シーネイアは優しく言った。
 会いたいと思ったときには、もう会えなくなってしまっているかもしれない。だから、今、大切な方に会いに行ってほしい、と。
 彼女自身が、幼くして母と死に別れていた。父と養い親は、別れを惜しむ間もなく流行り病で突然に世を去ったのだという。
 だからこその言葉だったのだろう。
 シーネイアは緑色の目にいっぱいに涙を溜め、ブリシカに手紙を託してくれた。
 彼女はグラニスの子を身ごもり、無事に女児を出産した。そして今は、娘とともに北の離宮でひっそりと暮らしている。ブリシカはその一角を賜って、シーネイアとその娘とに仕えていた。
 その日の晩も、シーネイアがアンナロッサを寝かしつけている刻限に、ブリシカはひとりで刺繍を刺していた。
 王宮にやってきた十四の春から四十年、月日はブリシカの身に降り積もり、老いは目にも及んでいる。特に夜などは手元の本を読むのも億劫になってしまった。
 けれど、シーネイアと共にアンナロッサの衣装を作る楽しみはどうしても捨てがたいのだ。シーネイアは、刺繍も編み物も、裁縫ならば生業の針子も顔負けなほど器用にする。若い彼女から、教えられることはとても多かった。
「ブリシカ、ねえ」
 アンナロッサが、扉の陰から顔を覗かせている。眠りが浅くて、寝台を抜け出してきたのだろう。よくあることだった。
「いかがなさいましたか。こわい夢でもごらんになりましたか?」
「ううん、ちょっとね、めがさめちゃったの」
 そう言って、おずおずと部屋の中に入ってくる。
 ブリシカは針を針山に戻し、布地を卓にのせて、長椅子の隣をあけた。
 アンナロッサは慣れた様子で長椅子によじのぼり、ブリシカの横に座った。
「おかあさまはおやすみでしたか?」
「うん、アンナのおなかにおててをのせていらしたから、アンナね、そっーとぬけだしてきたの」
 ブリシカは、寝癖でくしゃくしゃの白金色のみつあみをほどき、手櫛を通してやる。結いなおしてリボンをつけてやると、アンナロッサは満足げな顔をした。
 アンナロッサの髪は、アトラインのそれによく似ている。
 柔らかく手のかかる、美しい金髪だ。
「温かいミルクでもつくらせましょうか。すぐに眠たくなりますよ」
「うん。でもね、ちょっとだけ、ししゅうしてるのみてもいい?」
 ブリシカが頷くと、アンナは膝の上で両手を揃えた。
 白い金髪、鮮やかな夏の海の色の瞳。
 このふた色のために、再び衣装を調えられる日がきたことは、ブリシカにとって本当に思いがけなかったことだった。
 ふと気がつけば、腰のあたりに温かい重みがかかっている。アンナロッサが、ブリシカに寄りかかって寝入っていた。
 その小さな体に自分のひざ掛けをかけてやろうとしたとき、ブリシカはふと窓の外を見遣った。何かに呼ばれたような、不思議な心地がしたのだった。
 国王が手がけ、アトラインの暮らしたこの場所に、ブリシカは時折二人の影を見る。
 陽光の差し込む居間に、あたりを見渡せる美しいテラスに。
 静まり返る夜の廊下に、燭台に照らされる長椅子の上に。
 黒い森に、花の咲き乱れる庭に。
 グラニスの背に、シーネイアのしなやかな手に。
 そして、まだ稚いアンナロッサの笑顔に。
 わたくしの至上の君。
 まだお側に行くには早すぎる。
 わたくしは、可愛らしいこの方が、健やかに育つお姿が見たい。
 遠くないいつかにまたお会いできたとき、わたくしのこの喜びを、あなたにお伝えしたいから。
 遠慮がちに扉が叩かれた。
 やってきたシーネイアに、ブリシカは顔を上げて微笑みかけるのだった。




(了)














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