深淵 The gulf
番外編 小夜風
10




 あの晩のことは、避暑に随行した者たちの胸のうちに秘された。
 しかし、全てを無かったことになどできるわけはなく、時折その出来事の傷跡が綻びるように日々の中に見え隠れした。
 国王は腫れ物に触るようにアトラインと息子に接したし、グラニスは不安そうにいつも母親に添い、父親の近くには寄り付かなくなった。しかし、それは私的な時間のあいだだけのことだった。アトラインが、公的な場では常に国王と行動を共にしたからだった。
 アトラインは頑なに、国王と息子の傍らに居続けようとした。
 高熱がもとで胸の病を得たあとも、典医に勧められた保養地での療養を拒み通した。
 結婚から二十年目の秋、国王が、彼女に小さな離宮を贈った。
 壁も屋根も白く塗られた小さな邸宅で、王宮からは馬車で二刻ほどもかかる距離にあった。本当にこじんまりとした、ひっそりとした館だった。国王はその建物を北の離宮と呼んだ。
 国王はアトラインに、療養に行く代わりにここを自由に使えと命じた。
 しかし、国王の生きているあいだにアトラインがそこを訪れたのは、国王から離宮を贈られたその日だけだった。館の中と中庭をひとしきり回ってしまうまで、アトラインは終始顔を強張らせていた。
 アトラインはおのれを苛めるかのように働き続け、夜には糸が切れた人形のように眠った。その表情にはただ、滲むような悲しみがあった。
 ブリシカは何度も、アトラインが思いはららかすかのようにグラニスを抱きしめている姿を見た。母が何を詫びているのか、グラニス自身にははかりかねていただろう。ただ、少年は黙って母の背を優しく撫で、その嗚咽がやむのを待ってやっていたのだった。
 その光景は、グラニスの背丈が父に近づいたあたりにぱたりと見られなくなった。
 国王が突然の病に伏したころだった。










 
 壮健な肉体に恵まれた王だった。
 彼が小さな風邪をこじらせて肺炎にかかったとわかったときも、周囲はきっとすぐに快復するにちがいないと楽観視していた。彼が瀕死の床にあり、告解のために司教を呼べと訴えているとわかったとき、誰しもが驚いた。
 アトラインは国王が倒れた日から、寝室を国王の部屋に移した。昼夜を問わず看病に付き添い、典医の仕事を手伝った。
 王宮は混乱していた。既に国王の執務の半分はグラニスが担うようになっていたが、国王がいなければ進まない案件は多く、まつりごとは実質的に止まってしまった。代わりにそこここで、世継ぎをめぐる駆け引きが行われた。グラニスは立太子されていたが、肝心の後見役はいまだに決まらずじまいであったからだ。
 国王は瀕死の床に、アジェ侯爵とその跡継ぎを呼び寄せた。立ち会ったのはグラニスとアトライン、それに宰相と侍従長、ブリシカも部屋の隅に控えていた。
 ロレンツはそのときまだ二十台半ばで、軍部に籍を置いていた。しかし、対外的にも実質的にも侯爵家を取り仕切っていたのはロレンツだった。国王は侯爵にグラニスの後見役の任を与えた。
 侯爵たちが下がっていった後、グラニスも急ぎの執務のために出て行った。
 国王は残された者たちを呼び寄せた。
 彼は、苦しげな息の下から言葉を紡いだ。
「宰相には、今から話すことを私的な遺言としてほしい」
 そして、ブリシカに目線をくれる。茶色の瞳は濁っていたが、強さは失っていなかった。
「先生とブリシカにも聞いていてほしい」
 アトラインは寝台のそばに跪き、ブリシカはその後ろに控えた。典医と老宰相は足元で姿勢を正した。
「私が死んだ後、妃を故郷へ帰す。際して、王位に付随しない限りで私の財産を全て妃に譲る。ブリシカには妃についていってもらいたい。先生には、妃を今までと変わらず診ていただきたい。二人には相応の手当てを出す」
 アトラインは、何を言われたのか解していないようだった。ブリシカもおのれの耳を疑った。
「今、何とおっしゃいました」
 アトラインの声は震えていた。
 国王は確かな声で繰り返した。
「帰るのだ。あの美しいところで、穏やかに暮らすといい」
 アトラインは身を強張らせていた。
 国王は、まだアトラインがかつての許婚を愛しているとでも考えているのか――。
「陛下、……」
 アトラインを遮り、国王が語気強く言った。
「わかっている。わかっていた」
 国王はアトラインに視線を注いだ。既に彼の栗色の髪には白いものが混じり、肌からは色艶が失われ、深い皺が刻まれていた。ブリシカは、彼を襲った病魔の恐ろしさを目の当たりにした気がした。
「わかっていた。おまえは、一度たりとも私を裏切ったりはしなかった」
 グラニスを生む前にも、生んだ後にも、たったの一度も。
 国王の呟きは、掠れて弱弱しくなった。 
「私はおまえに問い質してしまった。疑いに心をとらわれて、言ってはならないことを言ってしまった。あのあと、ようやく気がついた。それなのに、私は、最後まで、おまえを手放してやれなかった」
 アトラインは身じろぎひとつしなかった。
「あの離宮、気に入らなかったのだな。おまえの家に似せて作ったが、やはり違っていたんだな……。せめて、あそこでおまえが体を休めてくれたらと、そんなふうに思っていた」
 国王がアトラインに贈った離宮。
 アトラインが安らぐために、国王が丹精を凝らした、南国風の白い館。
「もう命数尽きるかと思えば、こんなにも簡単に言葉が出てくるものなのだな。もっと早く、言っておけばよかった。あの子にも……」
 アトラインの手が震え、寝台の縁を這う。
「伝えてほしい。グラニスに、すまなかったと」
 アトラインが両手で顔を覆った。額を国王の腕に押し付け、嗚咽をこらえている。
 国王の手が動き、アトラインの骨ほそい手指をゆっくり引き剥がした。そして、その泣き濡れているだろう顔をあらわにする。ふたりは、ただ黙って見つめあっていた。
「はじめて見るな。おまえの、泣いている顔」
 国王は幽かに笑った。
 そして、妻の頬に手を滑らせ、涙を拭う仕草をした。
「きれいだ」
「……もう、若くはございません」
「いや、会ったときから変わらない。美しくて、こわれもののようで、私はどうしたらいいかわからなかったんだ。どうすればおまえが私の前で泣いてくれるのか、本心を明かしてくれるのか、私にはわからないままだった」
 アトラインは、頬を包む夫の手に、おのれのそれを重ねた。 
「私のために、泣いてくれるのだな」
 彼女は言葉もなく頷き、国王の手を強く握る。
「陛下――」
 アトラインの叫びが、聞こえてくるかのようだった。
 あなただった。
 奪ったのも、踏みにじったのも、苦しめたのも。息が詰まるほどの抱擁をくれたのも。
 あなただからだった。
 憎んだのも、憎むことをやめたのも。全てを許せたのも、全てを許してほしいと思ったのも。
 彼女はくず折れるように、国王の耳元に顔を伏せた。
 そして、ひとこと、何かを告げたようだった。
 国王は目を見張り、優しく笑った。
 そして、腕を持ち上げ、アトラインの頭をそっと撫でる。
「私もだ」
 掠れた返答が寝室に響き、それきり、部屋は静まり返った。 
 夫妻の会話は、それが最後になった。
 














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