深淵 The gulf







 アジェ侯爵家は、代々軍人を輩出する名家である。その嫡男は近衛隊に入隊することが慣例となっていて、そのまま軍部の出世街道を順調に行くことになる。
 当代の跡継ぎの息子は、特に、王太子の守役として幼いころから宮廷に上がっていただけあって国王の信頼も厚かった。見目もよいので独身のころはいろいろと騒がれたらしいが、八年前に伯爵家の令嬢を妻にとって王都で暮らしていた。
 暗い色合いの金髪に甘い緑色の瞳の美丈夫は、今二十五歳。
 若き主人の帰郷は、侯爵領にとっては半ばお祭り騒ぎだった。
 城下では老若男女が彼の噂をする。小さな歓待の式典まで準備されているという。
 それに負けてはおれぬと、ブレンデン邸では、食堂には温室から採られた花が所狭しと飾られ、窓硝子は曇りひとつも見逃されずに磨き立てられ、芝は庭師たちによって見事に刈りそろえられた。
 若君は王都であまりに忙しくしているため、ここへ戻ってくるのは実に数年ぶりだ。とくにますます冬の寒さの厳しくなるこの時期の帰還は、そのまま若君の長の滞在を意味した。
 侯爵とその家族は王都に居を構えている。
 そこで一年のほとんどを過ごし、領地には寒さの緩んだ春か夏に、ほんの二月三月ばかりとどまるだけだった。
 侯爵家とは奥方と嫡男、その夫人、そして王太子妃の第一候補と目されている令嬢のこととである。シーネイアは、母とともに生まれたときからこの館で暮らしていた。
 若き跡継ぎの君を載せた馬車は、今夜にもブレンデン邸に到着するという。
 シーネイアは、自室の窓から、夕闇に紛れてゆく中庭を見つめていた。
 侯爵家の妾腹の次女には、館の西翼の二階にある一続きが与えられている。居間と寝室、それから客間の三つの部屋。母が侯爵の寵愛を受けたときにいただいた部屋にそのまま暮らしているのだ。
 気泡をはらんだ窓硝子の向こうに、冬支度を終えた薔薇園が見える。秋の花を散らした薔薇が、次の花を咲かせるのは春の初め。あと半年も先のことだ。
 シーネイアはため息を吐いた。
 跡継ぎの兄君に会うのは、これが初めてではなかった。最初に彼の姿を見たのは、母が生きていたころのことだ。
 病を患って床に伏しがちになっていた母は、兄君が来るとはしゃぐ娘にこう言った。かよわくいつまでも少女のようないつもの母からは、想像もできないような厳しさで。
『あの方の前に出てはいけません。お顔を見せてはいけません』
 なぜ、と繰り返し尋ねる娘に、母はそれきり口をつぐんでいた。
 それでも、館の者が兄君の素晴らしさを何度も語る姿を目にしていた娘だから、どうしても兄君に一目会ってみたかった。
 四つか五つだったシーネイアは、建物の陰で、兄君が到着するところを待ち構えていた。 異腹の兄は美しかった。シーネイアと全く同じ色の髪、瞳。細身の身体に黒い外套をまとった優雅な姿。
 絶対に見つからないところに身をひそめていたはずなのに、金色の髪の青年は、馬車から下りるなりまっすぐにシーネイアに視線を向けた。
 そして、さも汚らわしいものでも見たかのように、秀麗なかたちの眉をひそめた。
 信じられずにシーネイアが呆然としていると、彼はすぐに顔を背け、執事に導かれて館の中へ入っていってしまった。
 シーネイアはそのまま母のもとに駆けていって、寝台の横にしゃがみこんでしばらく泣いた。母は何も言わなかったが、おそらくわけはわかっていたのだろう。
 それから、兄君が館へやってきても、シーネイアは決して表には出ないようになった。
 普段はそこかしこを歩き廻り遊び廻り、厨房へも厩舎へも入り込んでいたのが、一歩も自室から外へ出なくなる。母が生きているときも亡くなったあとも、乳母とマクシミリアンを相手に刺繍をしたり本を読んだりして過ごしたのである。
 侯爵家の人々が滞在している間は、兄君やその家族の意向で、同じ席で食事を摂ることすら許されてはいなかった。それには母の出自が関係しているとか聞いたことがあるけれど、よく理解はできなかった。
「シーナさま」
 声をかけられ、シーネイアは振り返る。乳母のアーニャだった。肩掛を腕に抱いている。
「お寒いでしょう。それに、暗くなりましたから、明かりを持ってきましょうね」
 肩掛を差し出すのをシーネイアは受け取った。
「ロレンツさまがいらっしゃるなんて、知らなかった」
 ぽつりとシーネイアは呟いた。シーネイアは、母から彼を兄と呼ぶことを禁じられていた。シーネイアが彼の帰郷を知らされたのは、昨日のことだった。そこに館の者の配慮が及んでいることに、幼い彼女は気づかない。
「いきなり言うなんて、ひどい……」
 シーネイアはアーニャに背を向けて、窓枠に手をかけた。
「みんないじわるだわ。私だけ知らないで、冬のしたくを手伝って……」
「若君さまがいらっしゃるとわかっていたら、何もお手伝いをしなかったのですか? シーナさまは」
 存外に冷たいアーニャの言葉に、シーネイアは振り返る。
「そんなことない」
「では、よろしいではありませんか」
「ちがうわ。だって、ロレンツさまがいらっしゃるってわかっていたら……」
 退屈しないために本をたくさん用意して、大好きな南瓜のパイを毎日作ってほしいと料理番にお願いして、マクシミリアンに相手をしてもらう約束をして。ああ、今はもう、マクシミリアンはシーネイアの遊び相手などごめんだと思っているのだった。それならば、家庭教師の先生に毎日来てもらえるように約束もして。
「シーナさまは、若君様がきらいですか?」
 シーネイアは俯いた。
「きらいじゃないわ。でも、こわい」
「どうして?」
「ロレンツさまは私がきらいだって、わかるもの。ロレンツさまだけじゃなくて、奥様もカメリア様も」
 アーニャが痛ましい表情をしていることに、シーネイアは気づかない。
「今は、それに……」
 マクシミリアンの母の前で、彼のことを話すのはためらわれた。シーネイアがへたにアーニャに彼のことを話して、彼がいやいやシーネイアのところに来たりするのは嫌だった。
「……ううん、何でもない」
「シーナさま、あの子は……」
 シーネイアは目を上げた。なぜ、乳母には自分の考えていることがわかるのだろうか。
「いいの!」
 シーネイアはおびえた。
 シーネイアの心を安らかにさせるためだけの嘘はいらなかった。何よりも、マクシミリアンは自分のことが嫌いだと、言葉にされるのは恐ろしかった。
「ミリアンなんてどうもしない。いつもどおりだもの。それに、ロレンツさまのいるあいだのことだって心配いらないわ」
 再び乳母に背を向けて、それきり一言も言葉を発しなかった。アーニャは部屋を出ていって、燭台に火を点けるために戻ってきたが、シーネイアは黙りこんでずっと外を眺めていた。
 遠く本館の食堂のあたりから、いくつかの歓声が聞こえてきた。
 兄君が到着したのだろう。館じゅうの人間が集まっての宴が催されるのだと聞いた。
 マクシミリアンもあの中にいるのだろうか。アーニャもあそこに行ってしまったのだろうか。
 漏れくる明かりに照らされて、薔薇園が淡く浮かび上がる。
 シーネイアを目を伏せる。
 ブグネル親方などが、幼さにふさわしくないその表情を見たならば、館じゅうのみなを慰めに駆り立てたことだろう。
 だが、今この場所に彼はおらず、また、いたとしても、館のみなは久方ぶりにやってきた若君に夢中なのだ。
「……おにいさま……」
 唇にのせてみる。誰かの前で、彼をそう呼んだことはない。
「おかあさま、どうして……?」
 答えなどあるはずがなかった。
 マクシミリアンにそばにいてほしかった。
 本当の兄にも疎まれて、そのうえマクシミリアンにまで嫌われてしまったら、自分はどうすればいいのだろう。
 シーネイアは床にしゃがみこみ、膝をかかえた。
 夕食が運ばれてくるまで、ずっとそのままで泣いていた。





 ←back  works  next→