深淵 The gulf







 北の大地に生きる人々は、淀みはじめた空のもとに、冬将軍の足音を聞く。
 王国の北の最果て、アジェ侯爵領ブレンデン邸では、十日の後には訪れるであろう寒波のために、準備に余念がなかった。とくに今年の冬には、例年にない大行事が待ち構えていた。
 既に月の初めにはこの地に初霜がおりていた。
 暖炉の火を絶やせない日が続いている。今年初めの雪は近日中に降るだろう。
 ブレンデン邸は、城下を一望できる小高い丘のうえの城である。
 城というよりは典雅な館というべきだろう。
 雪よりも白く塗られた建物は三棟にわたり、中央間と西翼のあいだに整えられた中庭を持つ。丘を反対に下れば深く黒い森とささやかな湖にたどりつく。
 これが、長い冬には銀色の原に溶け入りそうに輝くのである。
 さながら物語のなかの景色のような景観だった。
 侯爵領がもっとも麗しく輝く冬を迎えるため、厨房の者たちは一斉に買い出しに出かけ、洗濯女たちはここぞとばかりに衣類を干している。薪を集めるため男の子たちが森に駆り出された。
 厩番は、馬たちが凍えぬように早くも支度をはじめていた。
 薄暗く狭い厩舎の中には、五名の若者と一人の壮年の男。
「とっとと済ませちまえ! 中庭の手伝いに行かなきゃならねえんだからな」
 馬に関する一切をアジェ侯爵から任されているのは、この道三十年になるブグネルという男だ。大きな体としかつめらしい顔に似合わず、馬ならばどんな出来の悪いものでも溺愛せずにはおれない性分である。
 妻子よりも厩番の男たちよりも馬を大事にするというので、家族からの風当たりは吹雪ほどにも冷たいという噂までたてられていた。
 このブレンデン邸には、馬のほかにもうひとつ、ブグネルの愛してやまないものがあった。
「ブグネルさん!」
 高い澄んだ声が厩舎のなかに響いた。
 馬と数名の男たちが一斉に戸口の方を向く。
 誰より素早く対応したのは、他ならぬブグネル親方だった。
 戸口に立っているのは、少女だ。
 年の頃は七、八。きつくまとめた金髪に緑色の瞳がきらきらと輝いている。
 厩舎まで駆けてきたのだろうか、ふくよかな頬は桃色に上気して、小さな肩は浅い息にあわせて上下している。
 そのドレスの袖口や裾が泥で汚れているのさえ、ブグネルの目には愛らしく映る。
 アジェ侯爵家の末娘、シーネイアである。
 跡継ぎの嫡男や王太子殿下の婚約者候補である長女とは腹が違ったが、父親である侯爵の髪と瞳の色をそのまま継いでいる。
「薔薇の根っこに敷く藁が足りないの。あと二束くらいほしいのけれど、いい?」
「ええお嬢様、十束でも百束でも、好きなだけ持っていってかまいませんよ」
 ブグネルは顔に似合わない猫撫で声でそう言った。その目尻はこれ以上ないほど垂れ下がり、口もとは緩んでいる。
 後ろで、青年がそんなにたくさんはありませんよとでぼやいた。その頭を押さえつけ、彼は豹変した形相で怒鳴りちらす。
「御手伝いしろ! お嬢様に重いもんを持たせるんじゃない!」
「藁だもの、平気よ」
 シーネイアは勝手知ったる様子で厩舎に入り、奥から藁の束を抱えて出てきた。
「みなさん、おじゃまをしました。来年は、ここを手伝わせてちょうだいね」
 ぺこりとお辞儀をして出ていく様子を、ブグネルと男たちは見送った。
 戸口に向かって立ち尽くす親方を後目に、男たちはいそいそと持ち場に戻る。
「来年だってよ。真面目に掃除しとこうぜ」
「ばか言え、どうせ馬糞臭くなるさ」
「もう言うなよ。親方が涙ぐんでる」
 彼らはひそめられた会話を続けながら、仕事をはじめた。





「今日は、中庭で庭番のお手伝いをしたんですって?」
 乳母が刺繍の手を止めて、優しい視線をシーネイアに向けた。
「そう。藁をもらって、木の根っこに積んで」
 暖炉のそばの卓で、乳母とシーネイアは並んで座っていた。燭台の明かりのしたで、針を持った乳母の手は、布の上を素早く繊細に動いてゆく。
 自分はまだそうはいかない。
 小さくて簡単な刺繍でも、ずっと乳母より長く時間がかかってしまう。
 まるで魔法のようだとみとれていると、上からさらに声が降ってきた。
「ジウラが言っていました。お昼のドレスがどろどろだったんですって」
 シーネイアは肩をすくめた。侍女のジウラに着替えを手伝ってもらったときの、彼女のしかめっ面を思い出したのだ。
「……そうなの」
「それから、ブグネル親方が言っていました。今度は厩舎の手伝いをする約束をしたんですって?」
 シーネイアはますます小さくなる。乳母のアーニャはまるで実の母親のようにシーネイアを甘やかして可愛がってくれているが、実の母親のように厳しかった。
「だってね、馬屋はとても忙しそうだったの。ブグネルさんがみんなに怒鳴って恐かったし……。だから、お手伝いが来たらたすかるでしょ?」
 不安そうな瞳で見上げてくるシーネイアに、アーニャは目を閉じてため息をつく。
「庭番もブグネル親方も、とても嬉しそうにシーナさまのことを話していました。でもね、シーナ様がお手伝いをして、ドレスが汚れて、洗濯係がこまった思いをするんですよ。わかりますね?」
「はい」
 シーネイアはうなずいた。
「では、次からはどうすればいいのですか?」
「えっと……、洗濯をてつだう?」
 シーネイアは首を傾げた。
 アーニャが目を険しくさせる。
 シーネイアは考えた。しばらくの沈黙のあと、ひらめいたように目を輝かせた。
「汚れてもいい服に着替える?」
「そうです。今度は、ミリアンの小さくなった服を着るといいですよ。あの子の服は、泥だらけになっていないもののほうが珍しいんですからね」
 燭台の明かりがゆらめいた。見ると、三本の蝋燭は、ともに今にも尽きそうに短くなってしまっていた。
「今日はおしまいにしましょう。夜のお祈りをしますから、ミリアンを呼んできてくださいな」
 アーニャが立ち上がり、刺繍道具を片づけはじめた。シーネイアが差し出した刺繍枠を受け取り、手際よく針と糸を戻してゆく。
 シーネイアが隣室に行くと、扉のかたわらの長椅子で黒髪の少年が寝こけていた。絨緞の上まで垂れ下がった右手には、読み差しの本がある。
 シーネイアよりも三つばかり年上のアーニャの息子、マクシミリアンだった。
(私が叱られてるあいだに居眠りするなんて)
 シーネイアの悪戯心が働いた。シーネイアは開きかけの本の頁を何枚かめくってしおりを挟み、長椅子の上に載せた。そのうえ、マクシミリアンの高い鼻をつまんだ。
 マクシミリアンの黒い濃い眉が寄せられ、何度かひくついた。口をぱくつかせながら首を振り、うっすらと目を開ける。
「……なにするんだ」
 そう言いたかったのだろうが、残念ながら、マクシミリアンの口から発せられたのは間抜けな鼻声でしかなかった。いらだたしげにシーネイアの手を振り払い、乱暴に立ち上がると、彼はシーネイアを睨みおろした。
「どうして起こした」
「夜のお祈りよ。私が起こさなかったら、ばちがあたってこわい夢を見てたでしょうよ」
 マクシミリアンは鼻を鳴らして、そのままアーニャの待つ部屋へ行ってしまった。  シーネイアは、長椅子の前にぼんやりと立ち尽くした。
 この半年ほど、こんなふうなことが続いてばかりだった。
 シーネイアが何かけしかけても、マクシミリアンはむっとした顔でこっちを見ているか、知らんふりをするかのどちらかだった。
 話しかけても返ってくるのは短い返事ばかり。用がなければ近寄ってもくれない。
 今日の昼間に一緒に植木の世話を手伝ったときも、やはり庭師たちとばかり話していて、シーネイアにかまってはくれなかった。シーネイアが難しい仕事に手を出そうとしたときだけ、怒った顔で何も言わずにシーネイアの手を止めた。
 こんなことがずっと続いたら、マクシミリアンのことばかり考えて、他には何もできなくなってしまう。
 嫌われてしまったのだろうか。釣りには行きたくないと行ったから? 男の子のように足が速くないから? それとも、自分が侯爵様の子供だから?
 シーネイアは少し寂しい気持ちでマクシミリアンに続いた。
 暖炉の上の祭壇にむかってひざまづいて、シーネイアはマクシミリアンの広い背中を見つめる。
 そしてこうべを垂れて祈るのだった。
 明日はミリアンがやさしくなってくれますように、と。





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