オダリスク
5 ベールの向こう








 一月に及ぶ旅のあと、ツイーは都にあるグルガンの私邸に滞在した。すぐに後宮に放り込まれるものかと思っていたが、そうもいかないらしかった。
 館はしっくいで白く塗られた建物で、先にそうと教えられなければこれが宮殿かと信じ込んだに違いない規模だった。内部も申し分なく整えられて、決して口を聞かない使用人たちが足音も立てずに行き来していた。
 グルガンは、その館中を案内してまわった。
 彼は骨格も肌の色もツイーの見慣れたものとは違うが、よく見ればとても人のよさそうな顔をしていた。二十五、六に見えるひょろりと痩せた青年で、ゆっくりと丁寧なラサ語を話した。ラサ語だけではなく、いろいろな国の言葉が達者なようだった。その頼りなげな佇まいと腰の低さから、ツイーは彼は通訳かなにかなのだと考えていたが、どうやらそうではないらしかった。
 彼は始終皇帝の側にいて、そうでないときは誰彼から名前を呼ばれていた。
 一月の間、ツイーとグエンが言葉を交わせたのは彼だけだった。道中には、こまごまと二人の世話を焼いてくれた。
 彼の家が代々学問に秀でた一族で、この国の中でも長い歴史を持っているのだということは後で知ることになった。それまで武を重んじるこの国で、長らく細々と日の目を見ない営みを続けてきたが、あの少年皇帝がグルガンを気に入って側に寄せ、重んじるようになったのだという。
「少しでも、住みよい場所になればよいのですが」
 庭に面した廊下を歩きながら、グルガンは、目じりを下げてそう言った。彼は足を止めて石畳を下り、青い芝生のうえをゆく。
 低木が、思議な形に刈り込まれて整えられていた。石に囲われた花壇も規則的に並んでいて、野生の樹木と野花しか知らないツイーにはいやな感じがした。
「私はいつ、『後宮』に行くのですか」
 ツイーは彼に尋ねてみた。『後宮』も『皇帝』も舌に馴染まない単語だったが、代わる言葉がラサ語にはないのでしかたない。
 グルガンは歩みを止め、ゆっくりとツイーを振り返る。
「三月はこちらに居ていただきます。慣例ですので」
「慣例?」
「そうです。後宮に入る女性は、九十日間の謹慎をするという決まりです」
「どうして?」
 畳み掛けるツイーに、グルガンは眉を下げてため息を吐く。ツイーは、こういうもったいぶった物言いがあまり好きではなかった。
「その、つまり、後宮に入る女性が身ごもっていないという証を立てねばならないのです。そういう掟なのです。……私には意味のない慣行に思えますし、実際にはあまり守られてもいないのですが」
 ツイーは身を硬くした。
 一月前のあの日、ツイーの身体を蹂躙した黒い影。
 それを思い出し、身体の芯から起こる震えを押さえつける。
「でも、……それであっても、身ごもっているはずがありません」
 ツイーは唇を噛む。
「私はまだ子供ですもの」
 ラサ人の婚姻は早い。男は十六で、女は初潮を見たら一人前だと見なされていた。ツイーも、いずれ父によって相応の婿とめあわされるはずだった。そして夫はいずれラサの王になり、ツイーはその側で一生を終えるはずだった。そう信じて疑ったことがなかった。
 だから、未だに心が、ラサが失われたという事実を認めていないのだった。
 グルガンは口を開いたまま、呆けたようにツイーを見つめた。ツイーは少し苦い笑みを浮かべる。
「女にならなければ、後宮には入れませんか」
 グルガンは慌てて首を振る。
「そういう決まりはありません。ですが、……その、申し訳ございませんでした」
 そして、心底気落ちしてしまったようにうな垂れてしまった。もしかしたら、ツイーの身を労わってくれているのかもしれなかった。
「いいえ、グルガンどのは答えてくださっただけです」
「恐縮です……」
 見かけの通りに、彼は繊細な質らしかった。こういう人間の扱いも、ツイーはあまり得意ではなかった。
「それで、三月のあいだ私は何をすればいいのですか?」
「ええ、身の回りの品を整えさせていただきます。何もかも一から用意しなくてはなりませんから。美容に励まれるのもよろしいと思います」
 ツイーは頷いた。
「も、もちろん私がすべてお世話するわけではありません! 私の母に任せます。私が言うのもなんですが、母は本当に趣味の良い女性なのです。きっとすぐにこちらの衣装を気に入っていただけると思います」
「衣装?」
 ツイーはおのれの身体を見下ろした。丸みのないすんなりとした全身は、濃い桃色のソリに包まれている。物心ついたときから、ツイーはこれしか着たことがない。
「服は、このままではいけませんか」
 グルガンはちょっと目を瞠り、困ったような顔をした。
「ソリ、というのでしたね」
「とても大切なものなんです。たくさん持ってきましたし」
「ですが、後宮の中では目立ちます。皇太后(ワリーデ・スルタン)がどうお思いになるか」
「『皇太后』?」
 たどたどしく唇にのせたツイーに、グルガンは神妙に頷いた。
「皇帝のお母君でいらっしゃいます。わが国では、息子は何よりも母を重んじます。皇帝であればなおさらです。後宮を実際に司っていらっしゃるのは皇太后ですから」
「女主というわけですね」
「……さきほど、私の母がツイーさまのお世話をすると申し上げましたね」
 頷くツイーに、彼は目を伏せた。
「母といっても義理の母です。私の実母は私が子供の頃亡くなりましたので。母はかつて、後宮にいた女性です。西の生まれで、奴隷として後宮に入り、歌声を愛されて皇帝の寵を得ました。ですが、毒を盛られて声を失い、私の父に下げ渡されました」
「毒を盛ったのが、『皇太后』?」
 グルガンは一瞬だけ目を眇め、ツイーに微笑んで見せた。
「さあ、今となっては。皇太后がご存命だからこそ、誰も真実を明かすことが出来ません。罪が罪ともなりません」
 ツイーは瞬きを繰り返す。 
「恐ろしい人なのですね」
「いいえ、穏和で聡明な方ですよ。ただ、皇帝とご自分に逆らう方には容赦がない」
 ツイーは思わず身震いをした。
「『皇太后』に疎まれて屠られてしまっては、ここに来た意味がありません」
「いいえ、少なくともあなたは、お命を奪われることはないと思います」
「なぜ?」
 グルガンは塀の側までツイーを導き、さりげなく日陰に入れてくれた。地面はひんやりと冷たかった。
「皇帝はラサの民に改宗を強いませんし、重税も課しません。あくまで穏便にラサを手に入れ、その地を活かしたいからです。ラサは皇帝にとって要石にも等しい土地であると同時に、最初の征服地です。そこから招いた姫君を、疎かにすることはできません」
「地を活かす?」
 グルガンは神妙に頷いた。
「ええ。皇帝は、ラサを拠点として、わが国から東国まで、まっすぐに交易路を伸ばすおつもりです。これまで東国との貿易といえば、もっぱら航路か山を南方に迂回して遠回りする方法をとっていましたが、ラサを越える経路で行けば、行き来にかかる時間は十日は短くなるでしょう」
 グルガンの返答は、ツイーには意外なものだった。
 東と西の大国は、互いの国へ攻め入る足がかりとしてラサを征服したがっているのだと考えていたからだ。多くのラサ人もそう認識していたし、だからこそ強硬に独立を維持してきた。
 ツイーは指を握りこんだ。
「私を後宮にいさせさえすれば、命さえ奪わなければ、何をしてもかまわないということですね?」
 グルガンは頭を掻いた。
「辛辣なお言葉ですが」
 グルガンは唇を引き締める。
「その通りです。あなたはとても難しい立場にいらっしゃる。皇帝はあなたを相応のもてなしで迎えるおつもりです。あなたは奴隷身分ではないのですから、皇帝への伏礼も行う必要がありません」
 グルガンは噛んで含めるように続けた。。
「今後宮にある女性たちは、献上されたか買われてきたかの奴隷身分がほとんどです。その中にあって、あなたの存在は人目を引きます。それは、後宮にあっては諸刃の剣になります」
 ツイーは、ソリの袖を握りしめた。
 彼はゆっくりと続けた。
「義母は、私にこう教えてくれました。一度後宮に入った女が、そこを出るのは容易なことではない。大切なものを失って、引き替えに自由を得るのだと。ほとんどの女はそれを命で贖うが、自分が失ったものは声だった。それは、とても幸福なことだったと」
 グルガンの声は穏やかだった。
 穏やかだから、ツイーはわかってしまった。
「……私は、死ぬまで出られはしないのでしょうか」
「むごい事を申し上げますが、おそらくは」
 グルガンは、真摯な眼差しでツイーを見つめる。
 その気遣いが有り難かった。
「むごいことでもなんでもありません。それが私が故郷のためにできる、最も善いことなのですもの」
 ツイーはこめかみに手をやり、きつく目を瞑る。
「私の身を案じてくださっているのはわかります。それに、グルガンどののお立場も悪くなってしまいますね。グエンも、私にならってくれると思います。……でも、でも」
 かさつく両手を見比べながら、ツイーは瞬きを繰り返した。
「ソリを脱ぐということは、私が私でなくなることと同じです」
 ツイーは真っ直ぐにグルガンを見据えた。
 彼は、しばらく黙っていたが、深く首肯して微笑んでくれた。
「お心のままに」
「……ごめんなさい」
「私こそ出すぎたことを申しました」
「いいえ、心に命じて参ります。ありがとう」
「私の立場なら、お気になさることはありませんよ。もともとあまり皇太后にはよく思われておりませんから」
「そうなのですか?」
「この通り、気も利きませんし、不調法ですし。剣の扱いも見られたものではありませんし。義母の半分でも雅趣が理解できたら恥ずかしくないのですが」
 ツイーは、よほどの趣味人だという彼の母に早く会いたくなった。彼女は、グエンとも仲良く慣れるかもしれない。 
「グルガンどのは、母君とはどうやってお話を?」
「私が喋り、母は書きます。それがどうか?」
 ツイーは頷いて身を乗り出した。
「お願いがあります。言葉を教えてください。できれば書き物も」
 グルガンはぽかんとツイーの顔を見つめてくる。ツイーが真剣なのだとわかったらしく、今度は何度も頷いてくれた。
 ツイーは芝生のうえに屈みこんだ。手で触れた地面は硬く、乾いていた。指の間で硬い青草がかさかさと揺れる。
「この国に根を下ろせるとは思えませんが」
 顔を上げて、塀に囲われた空を見上げる。抜けるように高く、雲ひとつない。 
「言葉を覚えなければ、あの子供を罵ってやることもできません」
「そういう単語は教えません」
 グルガンは困ったように眉を下げる。
 遠くを見るような彼の目に、僅かな優しさが見て取れた。
「母君を害した方の息子なのに、あの子供が憎くはないのですか」
 言ったあとで、自分の言葉があまりにぶしつけなものだと気がついた。ツイーは彼の顔を窺った。グルガンは、困ったような微笑を浮かべたままだった。
「ツイーさまは、皇帝を憎んでいらっしゃいますか」
 問い返され、ツイーは面食らう。
 不遜な表情をした少年を思い出し、我知らず顔を歪めていた。





 彼の館に滞在している間、グルガンは厳しい教師であり続けた。
 グルガンの義母は驚くほど若く、眩いほどの金髪と不思議な緑色の瞳の持ち主だった。その挙措はこの上なくたおやかで、いつも柔和に微笑んでいた。血のつながりはないはずなのに、グルガンと似ているところが多かった。
 彼女は言葉を介さないままグエンと意気投合し、二人であれこれツイーの身の回りの世話をしてくれた。
 三ヶ月間の謹慎期間を終えたツイーは、グルガンの私邸を出て都を北に上った。宮殿は小高い丘のうえにあり、青い海に臨んでいた。山地に育ったツイーには信じられないような光景だったが、海を眺めていられたのはほんの一瞬だった。
 ツイーはグルガンによって宮殿の最深部まで導かれ、後宮への入り口で彼と別れた。その足で、皇太后に挨拶をするために皇太后の広間に入った。
 広間は廊下に面した明るい部屋で、金と薄紅色でまとめた内装が美しかった。それでもどこか寒々しかったのは、その部屋に女がふたりきりでいたためばかりではないだろう。
 上座に座った女は、まるで人形のように身動きひとつ取らなかった。
 彼女は黒い衣装に身を包み、肌を隠していた。華奢な小さな身体を脇息にもたれかけさせたまま、呼吸もしていないように見えた。
 ツイーは彼女の下座に促され、敷物の上に座った。伏礼の必要はないといわれていたので、座礼にとどめた。
「初めて御意を得ます。ツイーと申します」
 覚えたての言葉に、舌がもつれた。
「今日から、後宮にて皇帝にお仕えさせていただきます。不慣れゆえ行き届かぬこともあるやもしれませんが、どうぞ、よしなに」
 皇太后は、驚くほどに若かった。グルガンの義母と年のころは変わらないと聞いていたが、彼女はまるで少女のようだった。
 完璧に整った美貌は、息子のそれよりも感情に欠けているように見えた。
 見つめ続けていれば、ゆるゆると魅入られてしまいそうな黒い底知れない瞳。グルガンの義母とは、見た目も纏う雰囲気も対極にあるような女性だった。
「こちらの言葉がおわかりか?」
 彼女は小首を傾げて問うた。
 その声は硬かった。
 硝子の器が割れる音さえ、これほど冷たくはないだろう。
 ツイーは真っ直ぐに彼女を見つめた。
「急ぎ覚えました。まだたどたどしいとは存じますが」
「それは殊勝なこと」
 薄い紅色の唇が、僅かに歪んだ。見覚えのある笑みだった。
 皇帝の嘲笑と、全く同じ形だった。
「しかし、覚えずともよいのですよ」
 ツイーは、その穏やかな声に耳を疑った。
 何を言われたのか、にわかには理解しがたかった。
 彼女は微笑んだままだった。
「あなたはラサよりお招きした大切な姫君。この後宮の女たちの誰よりも御身を厭うていただかねばなりません。そのお若い御身が、子を生むなどという大変な勤めを負わされるなどとは、考えるだけでお労しい」
 ツイーは身を硬くしていることしかできなかった。
「そのようなことは、他にいくらでもいる健やかな女たちに任せておしまいなさい。あなたはただ平穏に、何にも煩わされずにお暮らしになればよい。皇帝はあなたを最良のもてなしでお迎えになります。他の女奴隷たちにも、いいえ、皇帝に対してすら、気兼ねする必要はありませんよ」
 その、極上の笑み。
 ツイーは、一見柔和な彼女のかんばせに、彼女の真意を見て取った。
 お前のような女が皇帝の子を生むことなど許されぬ。
 分を弁えて暮らせ、そして表に姿を現すな。
 そういわれているのだとわかり、ツイーは背筋が寒くなるのを感じていた。
 たとえソリを脱ぎ捨てていても、結果は変わらなかっただろう。
 皇太后にとって自分は、初めから、気に入るとかそうではないとか、そういう類の感情を抱く対象ではありえなかったのだ。
 皇太后の支配する後宮という名の庭園に、紛れ込んでしまった野草の種。皇太后はその種を拾う。名も知らぬ野草が、土に根を下ろさぬように。
 ツイーはグルガンに感謝した。
 言葉を覚えていなければ、考え違いを改める機会すらなかったのだから。
 皇太后と間近に接したのは、これが最初で最後だった。
 その日の晩、皇帝はツイーを閨に呼んだ。広い寝室のなかで、二人は言葉のひとつも交わさず、まんじりともせずに夜を明かした。
 それ以後も、彼は決してツイーに触れることはなかった。
 ツイーは、ひたすらに目立たぬように、後宮の端で静かに暮らした。
 六年の間に、後宮の女の数は倍に増え、寵を受ける女もまた増えた。ある女は子供を生み、ある女は流産した。ある女は首を括り、ある女は病に命を落とした。ツイーの六年間は、黒い、いったん足をとられれば抜け出すことのかなわない後宮の趨勢とは無縁のものだった。
 髪が伸び、身体が丸くなり、乳房が膨らみ、遅い初潮が訪れた。ハマムで肌を磨きながら果実水を飲むのが楽しみになった。グエンは少し太って、目じりに皺が増えた。
 皇帝とは訪れのたびに二三の言葉を交わしたが、すぐに話の接ぎ穂がなくなって、互いに気まずい思いをした。それならばいっそ来なければいいと、ツイーは思ったが、口に出すにはいたらなかった。
 そのうちに皇帝はツイーの部屋で短い休息を取るようになり、ツイーは銀の香時計の使い方を覚えた。
 変わったことはそれだけだった。
 それだけなのだと思いたかった。




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