オダリスク
4 塔の向こうの星空








 ツイーは窓辺に座っていた。
 暁闇を裂いて光があふれる、あけぼのの空。
 東の空に浮かぶ最後の星をひとりで眺めるのが、ツイーの一日の始まりだった。
 この国の空はせまい。
 窓に切り取られ、塀に囲われていて、見上げていると息が詰まってしまいそうだ。とくに忌々しいのが、後宮の四方にそびえる四つの尖塔だった。後宮の象徴だとかいう白い塔は、ツイーの部屋の窓からの眺めをおおいに妨げていた。
「でも、あれに登ったら、きっと気持ちがいい……」
 ときたまそう零すツイーに、グエンは眉をひそめて『あんなもの、ラサの山の一合目ほどの高さもありませんよ』と口を尖らす。
 ラサ。
 天に最も近しいところ。
 その懐かしい名を唇にのせて、ツイーは窓枠に寄りかかる。
 三日ほど前、皇帝は南方へ視察に旅立っていった。
 皇帝は頻繁にあちこちに出かけ、一年のうち四半分は宮殿を空けている。それは視察のためであったり典礼のためであったり、あるいは戦場で指揮を取るためであったりした。
 六年前、うら若い皇帝が初陣を飾り、攻め取った国。
 ラサの夜明けは、荘厳な鐘の音とともに訪れた。
 あの鐘が鳴らなかったのは、ラサの歴史の上でただ一度。
 ラサの最後の日のことだった。







 峻厳な山あいに位置する城と寺院、それを放射状に取り囲む市街。それがラサという国のすべてだった。人々は高原に作物を育て、細々と金脈を掘り、山を越える旅人の宿場をつくった。
 ラサ山は、大陸の東西を分ける山脈の中央に位置する。山脈は東の大国と西の大国との境目で、ごく少ない、けれど山を知り尽くした人々が、点々と集落を作って穏やかに暮らしていた。
 数十年前、飽くことなく領地を広げる東西の帝国が、山を越えようとラサを攻めはじめた。
 けれども、ラサはいまだかつて外部からの侵略を許したことはなかった。
 敵方は本国から長の遠征を行い、過酷な山道と昼夜の気温差に疲弊して足止めされる。そこをラサの山に慣れた屈強な戦士たちに急襲され、退却を余儀なくされていた。
 それゆえ、ラサは難攻不落の空中都市と呼ばれていた。
 西国からの突然の派兵にも、ラサの人々は怯えなかった。
 しかし、露営を避け、なだれ込むように進軍してきた敵方に、圧されるように戦線は後退した。国王は身柄を拘束されてその日のうちに処刑され、その首を掲げた敵軍は城壁を崩してラサ市内を北上した。
 女子供ばかりが逃げ込んだ城が落とされるのは時間の問題となり、国王崩御の報から三夜が明けた早朝に、亡き国王の一人娘が敵方に下った。
 再三の降伏勧告は、王女の身柄と引き換えに、市内から軍を撤退させること、国民に危害を加えないことを約束していたからだった。
 投降はすなわち人質としての拘束を意味していたが、ツイーはためらわなかった。ためらう暇をおのれに与えたくなかった。ツイーは、泣いて止める侍女や、強硬に篭城を堅持しようとする老臣をなだめ、手持ちの最も上等なソリで装った。そして、グエンを供に、暁闇にまぎれて城門をくぐった。
 そのとき誰に何を言ったか、どんなことを言われたのかをあまり思い出せないのは、きっと、あまりの疲労と心労にほとんど朦朧としていたからだろう。そして何より、その後おのれの身に起こったことが、苛烈に過ぎたからだろう。
 街は奇妙なほどに静まり返っていた。向かった先は、城から歩いてほどない、ラサに一つきりの寺院だった。
 毎日のように通った建物は、見慣れぬたくさんの黒い天幕に囲まれていた。寺院の入り口から明かりが漏れているのを見て、ここが土足で踏みにじられたのかと思うと腸が煮えくり返るようだった。
 ツイーとグエンを迎えたのは、ラサ語を喋る痩せた優男だった。どう見ても軍人には見えない男はグルガンと名乗り、二人を寺院の内部に導いた。道すがらに彼は、ツイーが降ったからには、約定のとおり捕虜を解放し、市街から最低限の兵を残して撤退する、決して女子供には手を掛けないと説明した。
 これから人質として本国へ連れてゆかれると、遠まわしに聞かされたときは、むしろ胸を撫で下ろしたくなるほど安堵した。
 寺院の内部は人影もなく、常と変わらずに美しいままだった。
 ツイーは、グエンと引き離されて奥へ進んだ。
 城を出たときに覚悟はできていたし、グエンと離れるときも微笑んでいられた。ツイーはまだ初潮を迎えていなかったが、敵の将に会って何を求められるかわからないほど幼くはなかった。父と、夭逝した母とから受け継いだツイーの誇りは、舌を噛んだり父の仇をとろうといきり立ったりするようなまねを許さなかった。
 グルガンに促されて入ったのは、寺院の最奥の、王族のための控えの間だった。 
 つい先日まで父の使っていた座に、掛けている者があった。脇息に身をもたれかけさせ、斜に構えてこちらを見ている。窓からこぼれ入る朝日に、その影はひどく小さく見えた。
 ツイーは、震える両手でソリの裾を握り、萎えかける足でゆっくりと進み出た。まるで針の床を踏むような心地だった。
 強まる光に、彼の顔が明らかになった。
 その小さなおもて。
 ツイーは我が目を疑った。
「……テ・ヤネ……」
 思わずそう口にしていた。
 静かな部屋に、奇妙なほど大きく声は響いた。
 テ・ヤネ。
 テは男、ヤネは子供を意味するラサ語だった。
 胡坐のまま、ツイーを見上げているのは、まさしく少年だった。
 立てば、背丈はツイーと変わるまい。年頃も同じか、彼のほうがいくらか若いかもしれなかった。骨ばった肩、細い首に手足。
 こんな子供の手に、父の命が奪われたというのか。
 少年の浅黒い顔のなか、黒い瞳だけが鋭く大きくツイーに向けられていた。
 彼は、ツイーの呟きに片眉を上げた。
 そしてツイーの背後のグルガンに声をかけた。沈黙したままのグルガンに、少年はいらだったようにもう一度同じ言葉をかけた。
 グルガンはためらいながら、ツイーにはわからない言葉で短く答えた。
 それを聞いた少年は一瞬だけ目を瞠り、すぐに薄い唇を吊り上げた。
 甘さの残る幼い顔立ちに、歪んだような笑みは不釣合いだった。
 ツイーはようやく気がついた。
 おのれの呟きを訳されたのだ。
 身構えたときにはもう遅く、ツイーは立ち上がった少年に腕を引っつかまれていた。肉食の獣の動きだった。
 彼はグルガンに早口に何か言いつけ、グルガンはすぐに部屋から姿を消した。
 痛みに呻く暇もなく、ツイーは敷物のうえに引き倒された。腹のうえに乗る少年は、いっそ華奢といったほうが正しいような体つきなのに、ツイーの抗いを造作もなく片手であしらった。
 少年の手がソリにかかった。
 着るのに手間のかかるソリは、脱ぐのにも相応の手順がある。けれども、ツイーを襲うのは、そんなものを凌駕するほどの荒々しさだった。引き裂かれた綿布が悲鳴をあげた。
 その音に、頭の底が冷えた。
 自分は、覚悟をしてきたのではなかったか。
 相手が誰であろうと、身を委ねるつもりでいたのではなかったか。
 ツイーは抵抗をやめた。
 気づいた少年が、顔を上げてツイーを見下ろしてきた。 
 視線がひたと交わった。
 やはり、彼は少年でしかありえなかった。
 ツイーは目を反らさずに、少年の身体の下から抜け出し、彼の前に立った。
 破かれたソリは、けれどもまだほとんどツイーの身に纏わりついていた。幅広の布帛を肩から剥ぎ、身をひねりながら背中から滑らせた。前身ごろの襞を丁寧に解くと、ソリは渦を巻くように足元に流れ落ちた。
 そのあいだ、少年はツイーに手を触れなかった。
 ただじっと、ツイーがソリを取り去っていくのを見上げていた。
 チャドを取るには、さすがにためらいがあった。
 ツイーは顔を伏せて胴着に手を掛けた。
 すると、少年に強く腕を掴まれ、再び組み敷かれた。
 顔を埋められた首筋に、引きつれるような痛みがあった。身体をまさぐられて、苦痛と悪寒に目を瞑った。
 あとは、床板に染み付いた白檀の香りしか記憶になかった。
 嵐のようないっときが過ぎ去った後、少年は身支度もそこそこに部屋を出て行った。入れ替わりに、グエンがもつれるような足取りでツイーに駆け寄ってきた。
 泣きじゃくるグエンの背を宥めてやりながら、ツイーは床に打ち捨てられたソリを見つめていた。
 母から譲られた晴れ着は、無残なありさまだった。
 それは、ツイーの心の揺らぎがもたらした裂け目。
 自分が迷えば、あの荒ぶる黒い力は容赦なくツイーの大切なものを引き破っていくだろう。
 どこに連れて行かれようが、何度辱められようが、あの男の前で、涙だけは流すまい。
 悲しみにソリを汚すまい。
 それが、寺院に捧げた最後の誓約になった。



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