小鳥の屍








 表と奥の間の広い庭園が、自宅の中でラウラの一番のお気に入りだった。
 この国では、どんな貧しい家であっても、、男の住む表と女の住む奥が隔てられている。
 ラウラの住んでいる屋敷自体は、曽祖父の代に建てられた。曽祖父は三代前の国王の娘を娶り、家を盛りたてた人だった。屋敷は曾祖母を迎えるためにほとんど新築同様に建て直されたのだという。
 刈り込んだ植木と噴水を贅沢に配した庭園は、曽祖父から引き継いで、祖父が年月をかけて整えた。正妻である祖母の趣味で、端々まで贅を凝らしたつくりになっていた。
 そこでは人目がないので、ラウラはベールもつけずに歩き回ることが許された。
 許婚のイヴェイムが訪れれば、少しの時間だけでも一緒に散歩ができた。本当は男女が並んで歩くなどふしだらで考えられないことだったけれど、父母は目を瞑ってくれていた。イヴェイムはラウラが赤子のときから屋敷に出入りしており、むつきまで変えてもらったことのある間柄だったからだ。
 イヴェイムは国王の従弟にあたる人だった。
 彼はラウラよりも頭二つぶん背が高く、肩幅も広い武人らしい見事な体をしていた。歩くのもラウラよりだいぶ早いはずなのに、いつもラウラに歩調を合わせていてくれた。
 庭園を歩くときしか二人きりにはなれなかったので、ラウラは少しでもその時間を引き延ばそうと画策していた。そんなことは年長のイヴェイムにはお見通しだったのかもしれない。
 イヴェイムは口数の多い人ではなかった。イヴェイムはラウラの他愛ないおしゃべりを聞いて、頷いてあいづちをはさんでくれた。ベールからのぞくラウラの目を見つめて、少年のような笑みを浮かべてもくれた。
 イヴェイムがあまりに真っ直ぐにラウラに視線を注いでいるので、ラウラが尋ねたことがある。
「どうしてそんなに目ばかりご覧になるの?」
 すると、イヴェイムは、「ラウラの目を見れば、何を考えているのかすぐにわかるから楽しいんだよ」とはにかんだ。
 ラウラは、その日以来、子供じみた自分が恥ずかしくなってしまい、ベールの下でころころと表情を変えるのとおしゃべりしすぎるのとに気をつけるようになった。そして、いつか彼に嫁ぐ日のために花嫁修行に精を出した。
 ただ、庭を歩き回ることだけはやめなかった。
 庭園の隅には、祖母の薬草園があった。
 祖母は屋敷の端に住んでいて、父や母とはあまり仲がよくない様子だったが、ラウラのことは可愛がってくれた。年頃になって知ったが、祖母と父は本当は血のつながりがないのだった。
 ラウラはよく、祖母の手伝いをして薬草の世話をした。
 祖母は香草や薬草のほかに、毒草も育てていた。孫娘に植物の見分け方と煎じ方を懇々と説き、毒草の使い方や特徴も丁寧に教え込んだ。祖母の部屋の抽斗には、植物でない薬もたくさんあった。下痢を起こすだけの弱い毒もあった。水銀、砒素といった猛毒は、よく覚えておいでと何度も見せてもらった。
 祖母は、女である限りいつか毒を必要とするときがくると、おまえが嫁ぐときは鳥兜の株をわけてやると、そう言った。
 毒なんて使わないわとラウラは笑った。祖母は厳しい顔で、いつかわかると呟いていた。
 イヴェイムとともに庭園を散歩していたときのことだ。
 塀のそばの茂みに、黒い小さなかたまりが落ちていた。
 よく見れば、それは鳥の雛だった。
 ラウラは慌てて駆け寄り、雛を手のひらにすくった。
「イヴェイムさま、血が……」
 その片翼は血で染まっていた。小鳥はぐったりとして動きもしない。
 しかし、生きている証に、ラウラのてのひらにはとくとくと小さな鼓動が伝わってきた。 
 イヴェイムがラウラの前に回りこんで膝をついた。
 手のなかを見下ろし、眉をひそめる。
「小夜啼鳥の雛だね。うまく飛べないうちに、猫にでもかまれたのかもしれないね」
「治りますか? 死んでしまいますか?」
「泣くことはないよ。大丈夫、きっと助かるよ」
「ほんとうですか?」
「手当てをしよう。お祖母さまに薬をいただくのがいい」
 イヴェイムは立ち上がった。
「ラウラ、お祖母さまには何をいただけばいい?」
 イヴェイムに促され、ラウラは唇を開いた。
「蓬の葉を使います。血を止めるためです」
 イヴェイムは深く頷き、ラウラを立ち上がらせた。 
 ラウラは彼とともに祖母の部屋を訪ねて、薬をもらった。
 祖母が古い鳥籠を出してきてくれたので、それをありがたく使うことにした。
 寡黙で厳しいが、物知りな祖母。優しく頼もしい許婚。
 二人に囲まれて、ラウラはそのとき間違いなく幸福だった。
 ラウラは十七になればイヴェイムに嫁ぎ、祖母とは離れて暮らすことになる。だからそれまでは、祖母と寄り添って、教えを乞おうと思っていた。
 鳥籠は祖母の部屋に置き、ラウラが世話をすることにした。
 イヴェイムは訪れるたびにその様子を見て、ラウラの手当てを褒めてくれた。小鳥の翼が癒え、軽やかで美しい声で歌うようになったあとでも、ラウラは小鳥を逃がさなかった。手放せなかったと言ったほうが正しい。
 祖母が急死し、イヴェイムが戦に発ち――、彼もまた亡くなってしまったからだった。
 そのあとのことは、まるで魔人の見せる悪夢のようだった。
 ラウラは悲しみにくれ、父にもう結婚はしないと訴えた。父は既にラウラの新しい夫探しを始めていたので、その懇願は素気無く却下された。しばらくして、父が嬉々とした表情でラウラに告げた。
 後宮に伺候せよと。
 国王は、従弟であり親友であったイヴェイムが自分のために命を落としたと嘆き、同じ悲しみを持つものが話し相手になってくれれば心慰められると言っているのだという。
 イヴェイムがグレオル二世を敵矢からかばって戦死したことは、既にラウラに知らされていた。武人としても臣下としても、友としても、イヴェイムは彼に忠義を誓い、それを果たしたのだった。
 ラウラは国王と数えるほどしか会ったことがなかった。
 そのときラウラはイヴェイムの許嫁として紹介された。国王のことは冷たそうな男だと思っていたし、実際にそうだという印象しか持っていなかった。
 けれど、イヴェイムはいつもにこやかに国王のことを話してくれた。少し皮肉屋だが聡明な男だと。
 そんな貴い人が、イヴェイムを偲び、慰めを求めているという事実に、ラウラは心打たれた。
 そして、喜色を隠さぬ父によって、ラウラは後宮に入れられることになった。
 後宮の入ったその日の晩、ラウラは彼に犯された。
 グレオルはイヴェイムの名すら口に上らせず、ラウラとろくに言葉も交わさず、当然のようにラウラを求めた。彼は、抗うラウラの耳元に、自害すれば父の立場を危うくすると吹き込んだ。ここでこうして、私のものでいればいいと。
 ラウラはようやく気がついた。
 この男は、自分に心の慰めなど求めていないのだと。
 そうして、恐ろしい事実に行き着き、ぞっとした。すべてが彼のはかりごとなのではないかと。
 信じたくはなかった。もしもそうだとしたら、イヴェイムは自分のために死んだのだから。
 おそるおそる尋ねたラウラに、彼は否とは言わなかった。
 ラウラはグレオルを詰った。詰って、責め、泣きながら抱かれた。
 嘘であってほしいと思った。
 けれど、グレオルは決して否定してくれなかった。
 ラウラの後宮での生活は、まるで囚人のそれのようだった。
 始終侍女たちに監視され、出歩くこともままならなかった。十日ごとにグレオルが訪れるときのほかは、話し相手もいなかった。心が死んだまま、ラウラはただその部屋で生きていた。
 たったの一年が、永遠のようにも思われた。




 グレオルのおとないがあった翌朝、ラウラの部屋に贈り物が届いた。
 西洋渡りの葡萄酒だと言って、グレオルがよこしたものだった。
 壺をあけると、馥郁とした果実の香りに混ざって、かすかな違和感があった。
 祖母の部屋で嗅いだことのある匂いだった。
 花の毒だった。
 匙にほんの四半分で、呼吸できなくなり死に至る。
 グレオルからこの侍女の手に渡るまでのあいだに、途中で誰かが入れたのだろう。そもそも、これが本当にグレオルの下されものであるのかさえわからない。
 毒など慣れっこだった。後宮に入ってすぐのころから、食事に混ぜものがないことのほうが珍しい。ラウラは後宮を出歩くことなど許されていないが、グレオルの後宮は大きく、女が多く、心当たりはありすぎた。
 しかし、この葡萄酒に入れられているのは匂いでわかるほど多量の猛毒だ。
 殺すつもりで、見つかるのも覚悟で用意したのだとしか思えない。
 ならば、自分が騒ぎ立てれば誰かが罰せられるだろう。死ぬことになるかもしれない。
「陛下にお礼を申し上げてから、いただくことにします」
 ラウラは壺を運んできた侍女の顔を見た。
 特段おかしな様子はなかった。知らないのかもしれなかった。
 ラウラは毎日小さな壺を眺めた。
 寝台の上で手にとってなでさすり、抱きしめもした。
 ラウラは、はじめて祖母の言葉を理解した。
 祖母が自分に毒草の心得を仕込んだのは、このときのためだと思った。
 ラウラは祖母を思った。生さぬ仲の子を息子と呼んでいた祖母。
 血のつながりのないラウラを孫として可愛がってくれた祖母。
 父の実母は、父を産んですぐ没したのだという。祖母を屋敷の端に追いやった父は、祖母が死んだとき葬式こそ派手に出したが、気落ちした様子も何もなかった。
 ラウラの生まれるはるか昔に祖母たちに何があったのか、もはや知る由はない。しかし、おおかたの察しはついた。きっと、ここで起こっていることと何ら変わりはないのだろう。
 ラウラは、自分の胸が少しも痛まないことに気がついた。
 むしろ、いつでもあの男を殺すことができるのだと思うと、心がわき立つようだった。
 何と言って飲ませてやろう。情事のあとがいいか、先がいいか。
 それとも口移しに飲ませてやろうか。
 ラウラはうっとりと、復讐の甘美に酔った。
 イヴェイムの仇をとるのだ。自ら手も下さずに、イヴェイムに自分を信じさせたまま殺した卑怯な男を、今度は自分が手にかけるのだ。
 ただ、どうしようもない事実に行き当たり、その喜びは潰えた。
 イヴェイムは、ラウラのために帰るより、グレオルのために死ぬことを選んだのだ。
 死ぬつもりはなかったかもしれない。でも、死ぬのを怖れずグレオルを守ったのだ。
 本当にグレオルに奪われたものは、イヴェイムの命ではなかった。
 イヴェイムはラウラを可愛いと思ってくれていただろう。妻に迎えてもいいくらいには、愛しいと思ってくれていただろう。でも、グレオルに対しては違ったのだ。可愛いとか、愛しいとか、そんな秤では推し量れない感情をグレオルに捧げていたのだ。
 自分は負けていたのだ。
 初めからイヴェイムは自分のものなどではなかった。
 自分はただ、彼の妻になるという約束だけをされていたのであって、それ以上でもなんでもなかった。
 ラウラは抑えきれない屈辱に身を焼かれた。
 イヴェイムの忠誠を利用した、卑怯な男に対する憎悪はいっそう募った。
 しかし、思い至った。
 イヴェイムはグレオルを守って死んだ。
 身を挺して主君を守って、矢を受けて死んでいった。
 自分が彼に手を下すことは、イヴェイムの最後の心を汚すことになるのではないか。
 自分がそれをしていいのか。
 彼の妻たるに相応しくあろうと、それだけを思って生きてきた自分が。
 たとえグレオルがイヴェイムの仇だからといって、たとえ彼がラウラの幸せを奪っていったものだからといって、自分がグレオルを屠ることをイヴェイムが望むだろうか。何も知らずに死んだイヴェイムは、きっと、グレオルの命を望んでいた。ラウラが彼を殺すことなど望んでいなかった。
 しかし、グレオルや父の言うがままに、ここで生きていくなどという途はありえないのだ。
 そう決めた晩、侍女たちが寝静まった後、ラウラは鳥籠の前に立った。
 ラウラが後宮に持ち込んで、唯一手元に残せたものだった。
 優しい思い出をもって、ずっと、ラウラの心を慰めてくれた。
 鍵を開け、手を差し入れた。
 眠っていた小鳥は、しかし、目を覚まして嬉しげにラウラの指のうえに乗った。
「今まで、ありがとう。でも、もう逃がしてあげる」
 鳥籠からそっと小鳥を出してやり、窓辺に運んだ。
 小鳥は、まるい目をラウラに向けた。首を傾げるようにきょろきょろとあたりをうかがう。
「いいのよ。行っておしまい」
 逆の手で、その小さな体を掴んで窓辺に立たせた。
 しかし、小鳥は動こうとしなかった。いつまでたってもほよほよと歩き回るだけで、はばたこうとする様子もない。しかし、ラウラが背を向けると、頼りない羽音を立ててラウラの肩に乗った。
 何も知らない小鳥は、ラウラの首筋に顔を寄せてくる。
「ねえおまえ、もう飛べないの? ……私が、おまえを飛べなくしてしまったの?」
 ラウラが問うと、小鳥は翼を畳んで腕を辿り、左手のうえに乗った。
「私はもうすぐいなくなるのよ。そうしたら、もうここにいたって、誰も世話なんてしてくれないんだから」
 小鳥はラウラの指のあいだに嘴を突っ込んで、もぞもぞと胴を動かしている。
 くすぐったさに思わず笑みがこぼれて、次の瞬間、ラウラは一筋涙を零していた。
 左手に小鳥を乗せたまま、鳥籠の水皿のなかにあの酒を注いだ。
「お飲み」
 小鳥はいつものように、水を飲むためにからだを屈めた。
「おまえは、イヴェイムさまのおそばにお行き。あの方がお寂しくないように、歌ってさしあげるのよ」
 ラウラは、小鳥の嘴を指でしっかり閉ざしていた。目は反らさなかった。
 小鳥はしばらく羽をばたつかせていたが、とうとう息絶えた。
 爪に掻かれたところから血が流れた。
 その一滴が、水皿に滴って酒に溶けた。
 もう、後戻りはできないと思った。
 イヴェイムはいつもラウラに、そのままのラウラでおいでと口癖のように言っていた。そのままの君が好きだから、私の妻になっても君のままでいていいんだ、と。
 無邪気で明るかったラウラはもういない。
 傷ついた小鳥を抱いて、泣きべそをかくような少女ではなくなってしまった。
 死んで、イヴェイムの側に行けるとは思わない。
 二度と彼の腕に抱かれようとは思わない。
 終末の審判がくだるまで、あの魂にまみえることもきっとできまい。
 そう思えば、苦しげな顔で自分に会いに来る男が、次第に哀れに思えてきた。
 グレオルの自分に対する執着が、愛などというものだとは思えない。だが、それは自分も同じだ。
 恋は恋のまま燃え尽きて、黒い灰しか残すまい。
 ラウラがグレオルに対して抱いた最後の感情。
 それは、絶対に手の届かない人間を求めている相手に対する、共感というものだったかもしれない。
 国王と言う立場にあるからこそ、人に明かせぬ苦しみがあり、人に見せられぬ弱みがあり、人に愛を乞うことを許さない誇りがあるのではないのか。有り余る力があるからこそ、何もかもを思い通りにできるからこそ、本当は何一つ思うままにはできないのではないか。
 気づいたラウラは恐ろしくなった。
 自分は、からだの快楽に心を引きずられているのではないかと。このままグレオルのものでいつづけたら、自分はいつか彼に身も心も慣らされて、飛べない鳥のようになってしまう。それがラウラには、何よりも恐ろしい罪に思えた。
 ラウラは指先で小鳥の死骸を撫でた。
 まだ温かく、柔らかかった。ラウラは何度も繰り返し、そのからだを愛撫した。
 自分は彼を愛さない。
 愛することなどできはしない。
 そして、彼を殺しもしない。
 殺すことなどできはしない。
 でも、復讐することはできる。自らの命でもって。
 あの憎い男に、せめて一矢報いたい。憎み続けたままお仕舞いにしたいのだ。
 自害は罪だ。
 けれど、罪を犯さぬために、罪を塗り重ねよう。
 誰もが、生まれながらの罪びとだ。
 ただ、どの罪を犯して生きるか、選ぶことができるだけだ。
 それが神が人に垂れた最大の慈悲だ。
 屍が、冷たく硬くなっていく。
 ラウラは身じろぎもせず、それを見つめていた。






関連作:「血塗りの器」