風車の節 番外編 落花流水 「妾(わたし)は気づいていましたわ」 したり顔で、側女のひとりはそう言った。閨に呼ばなくなってから数か月、英琴の話し相手だけをつとめている。 英琴はその女に、今晩、暇を与えた。それを聞くなり、女は微笑んで言ったのだ。 女の名は桂麗という。 「何にだ」 英琴はそう尋ねるが、彼女はもったいぶるように含み笑いをした。 白いなめらかな手が、銚子から英琴の杯に酒を注ぐ。 彼の与えた嬬裙(きもの)を着、あつらえた簪を挿し、下女では絶対に履けぬ繻子の沓を履く。装うことを楽しみ、美しくあることが務めだと考えているようだった。 「わかぎみさまのおこころのありかに」 英琴は杯に唇を寄せたまま目を上げた。桂麗は、卓の向こうで嫣然と微笑んでいる。たおやかな動作で向かいの椅子に腰を下ろし、足を組む。 桂麗は、珠里を除けばもっとも付き合いの長い女だった。誘われるままに手を出して、以後何とはなしに関係を続けた。元は部屋付きの下女だったのが、いつの間にか嘉耶によって側女にされていた。 他にももう一人、下女から側女に上がった者がいた。 乳母の心配りはいつでも、疎ましいほど厚かった。 「そうか」 英琴は、一息に酒をあおった。 「私は、わかりやすかったか」 桂麗は赤い唇に笑みを留めたまま、すかさず銚子を傾ける。 「妬む気もおこりませんでした。少なくとも妾は」 女は一瞬だけ目を伏せると、こちらに手を伸ばし、英琴からそっと杯を掠め取る。一口酒を含み、満足そうに飲み下す。 女のぶんの杯は用意されていない。 側女は使用人だから、英琴と同席することはできない。 許しなく主の前で腰掛ける無礼も、なれなれしい口調も、けだるげな仕草も、桂麗だから責めなかった。 「だってわかぎみさまは」 桂麗は二口、三口と口をつけ、とうとう杯を干してしまう。 「いつも珠里にだけ、くだされものをなさらなかったじゃありませんか」 女は手酌で酒をすすめる。 咎める気も起きず、英琴はそのままにさせている。 「嬬裙も玉(ぎょく)も、妾と呂歌には何だって気前よくくださっていたのに、珠里には点心(おかし)ひとつやっている所を見たことがありませんわ」 確かにそうだった。 元服を済ませたばかりのころ、英琴の閨に侍るのは珠里だけだった。嘉耶の娘であるというだけでも疎ましいのに、どれだけ乱暴に扱ってもさいなんでも、無言で仕える彼女が気に入らなかった。それなのに女を抱いて得られる快楽を手放しがたく、しばらく英琴は荒れていた。 桂麗と寝るようになったころ、他の女でも同じようにそれが得られるのだと知った。桂麗は生娘ではなかったし、年上で明るく、気安かった。 英琴は次に、同じく下女だった呂歌に手をつけた。ふたりとも鄙にも稀な美貌の持ち主だった。姉のように親しみやすい桂麗と、おおげさなほど素直な呂歌。英琴はそれぞれをそれなりに遇した。嘉耶も表向き歓迎するような素振りを見せていた。 始めにふたりに与えたのは、じつに他愛ないものだったように思う。それを桂麗は上手に(他に言いようが思いつかないのでしかたがない)、呂歌は大仰に喜んだ。 めかけにする贈り物は、男の甲斐性をはかる何よりのめやすだ(節度を守ればの話ではあったが)。 側女の身分が低いのは世のならいで、朱家でも側女たちに与えられる給金はおそろしいほど少ないはずだった。主から絞れるうちに搾り取って、溜め込んでおくのが女たちのかしこいやりかたでもある。 英琴は、桂麗にも呂歌にも、機会あるごとに惜しげなくものをやった。若い女の喜びそうなものを、いつも二人ぶん買い求めた。 二人の好みは面白いほど違っていた。玉ならば、桂麗は琥珀、呂歌は翡翠を喜んだ。桂麗は酒を好んだし、呂歌は子供のように甘いものに目がなかった。 英琴は珠里の好きなものを知らない。何も与えたことがなかったからだ。 思い知らせてやりたかった。 おまえにはその価値がないと。 英琴の知る限り、珠里は指輪ひとつ持たなかった。着飾った桂麗や呂歌に比べ、珠里が見劣りすることに胸がすく思いがした。 珍しく三人が揃った場で、みやげ物をひろげたこともある。 英琴は、珠里が屈辱を感じていればいいと思った。 けれど、彼女は顔色一つ変えず、部屋の隅で茶の支度を続けていた。英琴は苛立った。 珠里は何も欲しくないのだろうか。 英琴の与えるようなものに何の価値もないと思っているのか。 不愉快な思いをしたあとには、閨房で手ひどく彼女をさいなんだ。後ろ手に腕を縛り上げ、唇で奉仕させ、そのまま犯した。許しを請わせておいて赦さず、一晩中臥牀から出してやらなかった。 あの白い肌が紅色に染まり、澄んだ目がぽろぽろと涙を零すのを見て、英琴は自分でも気がおかしくなったかと思うくらい高ぶった。 「珠里の気を引きたかったんでしょ。やきもちを焼かせたかったんでしょ。あの子に何か贈ってみて、あの子が喜ばないかもしれないことが怖かったのでしょ」 しっとりとした声音で桂麗は呟く。 その切れ長の目がうるみ、長いまつげがうっすらと濡れて見える。 「特別扱いというのはなにも、ことさら可愛がることとは限りませんわ」 珠里が屋敷を出て行って、はや三月が経つ。そのあいだに嘉耶が亡くなり、英琴のもとには降るように縁談が舞い込みはじめた。 珠里は嘉耶の亡くなった後、城下の実家に戻っているようだった。 最後に閨に呼んだ晩のことを思い出す。 珠里はいつものように英琴に組み敷かれて、英琴が満足したのを見計らい、臥牀を抜け出た。英琴の体を拭き清めたあと、何の感慨もなさそうに英琴に別れを告げた。留めようとする英琴を柔らかく、けれど鮮やかに拒んだ。 今、どうしているのか。 胸が焼け付くほど知りたいと思ったけれど、知るのが恐ろしくもあった。嘉耶がいない今、珠里は実家で婿取りをするのかもしれない。珠里は陰日なたなくよく働いていたし、茶商の娘らしく、茶を淹れるのがうまかった。他の男の妻になって、子供を生み、家を切り盛りして暮らしていけるだろう。 この屋敷にいたあいだのことを、珠里はいずれ忘れるだろう。 それなのに、自分は今、あの痩せぎすの腕に抱かれたい。いつも悲しいような光を湛えた瞳が、微笑んでくれるのを見たい。 一度くらい優しくしてやっていればよかった。 応えてやっていればよかった。 英琴は、おのれの火照る額に手を当てた。 ふと顔をあげた。桂麗と視線が交わった。 桂麗が杯を卓のうえに下ろした。英琴の意思の揺らぎを敏く感じ取ったらしく、ゆっくり体を傾けてくる。 英琴は彼女に手を伸ばした。 吐息がかかるほどに顔を近づけ――、英琴は顔を背けた。 桂麗はゆっくり身を引いた。 「わかぎみさま」 ふわりと花の香りがした。 温かく柔らかいものが、頬に触れていた。 「いつか、珠里の喜ぶ贈り物を、見つけられたらいいですわね」 ごきげんよう、と女は微笑み、席を立った。 そして、音もなく部屋を出ていった。 くちづけを受けた頬に触れると、肌のうえで紅がぬめった。 |