風車の節 番外編 御館様の鋏 乾いた音が、響いた。 薬師ははっとして顔を上げ、隣の房室(へや)を覗き込んだ。 若君さまが、臥牀のうえの側女の胸倉を掴み上げていた。先ほどの音は、若君さまが女を打ったために違いなかった。 「何をなさっておいでですか!」 薬師は房室に踏み入り、慌てて若君さまと側女とを引き離した。 若君さまの名は朱英琴、ここ一帯を治める領主・朱洪宣の跡継ぎである。対する側女は名を伴珠里といい、当然ながら主である若君さまの持ち物であった。主が持ち物を如何に扱おうと、薬師が口を挟むところではないのだが、今日この日ばかりは違っていた。 なぜならば、珠里はつい昨日、出産を終えたばかりの身であったからだ。 若君さまが、肩で荒い息を吐きながら、薬師の肩を掴む。 「下がれ」 「なりませぬ」 睨みおろしてくる燃え滾るような目に、老体が竦む思いがした。 しかし、譲るわけにはいかなかった。 そばの揺り籠のなかでは、何も知らぬげな赤子がすやすやと眠っている。 この眠りを守らねばならぬと、薬師は曲がった背筋をしゃんとする。 「老師(せんせい)」 後ろから、か細い声が薬師を呼んだ。 左頬を赤くした珠里が、顔を上げていた。 「いいのです、お仕置きをされるようなことをした妾がいけなかったのです」 寝乱れた赤い髪に透き通るような白い肌の娘は、落ち着き払い、静かな目をしていた。 「妾が、お館様に、申し上げてはいけないことを言ってしまったから――」 「なぜ打たれたか、わかってはいるのだな」 若君さまは片眉を吊り上げ、苦々しそうに言った。薬師を押しのけ、珠里をまっすぐに見下ろした。 「馬鹿者が。一歩間違えれば、おまえは今頃墓の中だったのだぞ」 その顛末は、薬師もよく知っていた。 知っているというよりも、その場で聞いていたと言う方が正しい。 それも、つい昨日のことだった。 「その腹の子を産んだら、どこぞに消えよ」 お館さまが珠里に冷たく申し渡すのを、薬師は呆然と聞いていた。 珠里が一人で暮らす邸宅まで、お館様を案内してきたのは薬師自身であった。ただ連れて行けとお館様が命じるので、従わぬわけにもいかず、馬を並べてやってきたのだ。 薬師とともに現れたお館様を、珠里はおそれおののきながら邸宅に入れた。 お館様は、居間の椅子に掛けていた。珠里は大きく膨らんだ腹を抱えて茶の支度をしようと竈の前に立っていたところで、お館様の言葉に思わずといったていで手を止めている。もう赤子は産み月まで育っていて、あとは生まれるのを待つばかりであった。 「おまえは英琴のためにならぬ」 お館様はそう言い捨てた。 珠里は、今年の初めにお館を辞去し、この邸宅に移り住んでいた。珠里は若君様の乳母である嘉耶の娘で、彼女がお屋敷からお暇したのはその乳母の看病のためだった。 さほど目立たず、いまいちぱっとしなかった珠里は、若君さまの寵愛も薄かった。嘉耶ももはや家内での実権を失っていた。彼女たちが出て行くことはそう大したことではなかった。いや、そのように見えていた。 二人が荷物のひとつも残さず出て行ったあと、お屋敷はどことなく寂しく、散漫としていた。 嘉耶がまともに人前に姿を現さなくなってから、混乱した使用人たちをそれとなくとりまとめていたのは珠里だった。母の看病をしながら、使用人たちの持ちかける相談のあれこれに乗ってやっていたのである。きっと自分で気づきはしていなかっただろうが、彼女の言葉も行動も、母の背から学んだものだったのだろう。 その珠里がお屋敷を出るとき、お館さまは自らお言葉を下さり、お手当てを随分と弾んでくださったのだと聞いていた。 それから二月ほどして、嘉耶は亡くなった。 深く病み、正気を保てない状態の母と二人きりで、珠里はとてつもない辛苦と悲痛を味わっただろう。それでも、薬師が往診に訪れるときはいつでも、珠里はお屋敷では見たこともないほど穏やかな顔をしていた。 『たまに、母が子供のように見えるときがあるのです』 そう打ち明けてくれた珠里の横顔が、若いときの嘉耶にひどく似ていて、薬師は驚いた覚えがある。 嘉耶は、武家の生まれとはいえ商家の妻に過ぎず、若君様の乳母となってしばらくの間は使用人たちからひどく嫌われ、疎まれ、随分と陰湿な苛めも受けていた。嘉耶はいっそ傲岸にも見えるような気丈さでそれに耐え、若君さまのためによかれとひたすらにがむしゃらに突き進んだ。 「あれが、おまえを室に迎えるなどとたわけたことを言ってきかぬ。おまえがそそのかしたとは思っておらぬが、おまえがおる限りあれは折れぬ」 苦々しそうにお館様は続けた。 無理もないことだった。若君さまは、お館様が持ち込む縁談には目もくれず、ただただお父君に頭を下げ、珠里をお屋敷に迎えたい――それも側女としてではなく、正室としたいと、訴え続けているのだ。さもなくば生涯妻は持たない、ほかに子は作らないとも。 その証拠に、二人いた側女を家に帰してしまい、お館様がよかれと呼び寄せた娼妓すら閨房から締め出す始末だった。 珠里はいつか、ひそかにお館さまの手によって始末されるかもしれない。薬師がそんな懸念を覚えるほど、父子の仲は険悪だった。若君さまも同様の思いであったのか、珠里の様子を欠かさず使用人に報告させていた。 まさか、お館さま自らやってくるとは、若君さまも思い至らなかったに違いない。薬師は、まんまと手引きさせられたおのれが情けなかった。 「その子が男児でも、女児でも、朱家に入れてやる。優れた乳母を選んでしかるべき教育を受けさせよう。――だから、その子を産んだ後は出てゆけ。二度とあれの前に現れるな」 その言葉に、珠里が目を瞠り、唇をわななかせた。 破格の譲歩だと薬師は思う。 本来、使用人など武家の方々にとっては家具や食器と同じ「もの」だ。お館さまは嘉耶を気に入り、信頼してもいた。だから、その娘である側女に辞去のご挨拶まで許した。あまつさえ、自ら馬を駆って側女の家までやって来た。 お館さまにしても、子は惜しかろう。しかし、男女の別なく引き取ってやるとは。 珠里の腹の前で組んだ手が、微かに震えていた。珠里はその手で頬を拭った。白い顔を紅潮させ、涙を流していた。 「……まことにありがたきお心、いたみいります」 声は苦しげに揺れていた。 「では、左様せよ」 お館さまがほっとした様子で息をつく。珠里が、声を絞り出した。 「お館さま。代わりに、お願いがございます」 不機嫌そうに眉をしかめ、お館さまは顔を上げる。 返事次第ではお手打ちも免れないかもしれない。薬師は息を呑んだ。 「儂と渡り合おうと言うのか。側女風情が」 珠里は怯えたふうでもなく、唇を噛み、真っ直ぐにお館さまを見つめた。いつも悲しげに目を伏せている珠里が、見せたことのない顔だった。 珠里はゆっくりと唇を開いた。 「……わかぎみさまのお側を離れ、子を捨ててなお生き永らえることはしのびなく、耐え難く思います。子の顔を一目見ることをお許しいただければ、あとはもう、命はいりません」 「斬り捨てろと言うのだな」 「はい」 珠里はためらうことなく頷いた。 「元より、お産に耐えられるかわからぬ体でございます。よしんば幸いにして生き延びたとしても、子を捨てる母にはなりたくありません」 「よかろう」 「お館さま! お嬢さん!」 薬師は思わず声を上げた。正気とも思われなかった。 「若君さまのおこころはどうなりますか。お嬢さんがそんなことになれば、若君さまは――」 言い継ごうとしたとき、珠里の様子がおかしいことに気がついた。 腹を押さえ、蒼白な顔で立ち尽くしている。 「あ……」 ふら、と珠里の体が傾いだ。卓に手を付いたはいいものの、そのまま床にしゃがみこんでしまう。 足元で、水音。 薬師はとっさに跪き、珠里の体を支えた。 大量に破水したようで、沓から床までぐっしょりと濡れていた。珠里は自分の体に戸惑っているのだろう、子供のように薬師の顔を見上げている。 「産まれるんですか――?」 「ええ、そうですよ。痛みはありませんかな」 珠里は何度か頷いた。 「立てますかな。寝室へ」 薬師は、かぼそい体を立ち上がらせようとした。 お館さまが、思わずといったていで立ち上がっていた。拳を握り締め、ぽかんと口を開けて、薬師の腕の中の珠里を見つめている。 しかし、それどころではない薬師は、珠里を寝室に連れてゆくため、お館さまを居室に置き去りにしたのだった。 それから、薬師は寝室で珠里に付ききりになった。出産は難産になるものと思われたので、ひと時も目を離すことができなかった。厨房では、女中が支度のために慌しく立ち働いていた。 珠里は臥牀に横たわり、波のように襲ってくる陣痛にひとりで耐えていた。その腰をさすってやり、体のようすを見る。珠里はもう呼吸に慣れ、落ち着いていた。 「老師」 男の声に呼ばれた。 振り返ると、戸口に膨れ面のお館さまが立っていた。 「いかがなさいました?」 問いかけると、お館さまは口篭る。 「……何かすることはないのか?」 薬師は我が耳を疑い、すぐあっけに取られ、次に肩から力を抜いていた。 珠里の腰を摩れ、それが肝要なお役目だ、という薬師の言葉を、お館さまは鵜呑みになさった。臥牀の側に椅子を持ってきていそいそと腰掛け、珠里の背を両手で撫でてやっている。 十八年ほど前、薬師が若君様をとりあげたのは、万全な準備の整ったお屋敷でのことだった。お館さまが対面したのは、産湯を使ったあとの若君さまだった。 お館さまがお産の何たるかを知らなくても無理からぬことだった。 珠里はじっと目を瞑り、自分の体を宥めているのが誰なのかも気づいていない様子であった。 思いがけず、すみやかなお産となった。 赤子が産声をあげたのは、破水から数刻後、宵の口。稀に見る安産であったので、薬師は安心するとともに少々拍子抜けしてしまった。 「お嬢さん、男の子ですよ」 生まれたのは、丸々と肥えた男児だった。血に塗れた赤子は、薬師の腕の中で甲高い産声を上げている。 珠里は、疲れ果てた顔で赤子を見つめている。顔の前に赤子を持って行ってやると、羊水でぬめる小さな小さな手足に触れ、五指がそろっていることを確かめて、安堵したように微笑んだ。 そこに、女中が、火で焼いた鋏を持ってきた。 女中は当然のようにそれをお館さまに差し出した。 「これを切ってくださいませ。ほら、ここで」 と、薬師はへその緒を示した。 お館さまは薬師と女中、珠里と赤子を順繰りに見つめ、おそるおそる鋏を受け取った。珠里の足の間から赤子の腹まで伸びるへその緒に、じっと視線を注いでいる。 戦では大剣を振るって兵を指揮し敵軍に向かう武将が、赤子を前にして鋏を使いあぐねているさまは、薬師の微笑を誘った。 その間も、赤子は元気よく泣き続ける。早く切れと急かしているかのようだった。 「本当に切ってよいのか。まだ繋がっておるぞ、こんなに泣いて」 「繋がっているから切るのです。誰でもそのようにして産まれるのです」 「だが、死んでしまうのではないだろうな」 「死にはしませぬ。ただ」 薬師は、臥牀の中の珠里を見下ろした。 ぼんやりとした瞳で、お館さまと薬師とのやりとりを聞いている。 「離れたくないと泣くだけです」 お館さまはぴくりと眉を動かした。 赤子がふいに泣き止んだ。 そして、ぱちんと鋏が大きく鳴った。 そのあとのことはもう、居合わせた薬師自身も信じられないほどだった。 お館さまは生まれた男児に名前を付けた。さらに、赤子に乳をやるという名目で、珠里がお屋敷に戻ることを許した。 お館さまは離れがたそうな顔で赤子を珠里に返し、馬で一人お屋敷に帰っていった。薬師はそのまま家に泊まり、翌朝出立することにした。 早朝にやって来たのが若君さまだった。 「もうよいではありませぬか。こうして、御子はぶじに生まれ、お館さまもお怒りを解いてくださったのですから」 「ならぬ」 若君さまは珠里の肩を掴んだまま、ふいにゆりかごのなかに視線をくれた。その険しい顔がかすかに怯んだのに、薬師は気がついた。 「私を何だと思っている。父君の去れとのお言葉そのまま聞き入れたばかりか、殺せとまで迫るとは」 珠里は目を潤ませて若君さまに答える。 「申し訳ございません……」 「詫びよと言っているのではない。聞いているのだ。もしも父君がお言葉翻さず、斬り捨てられたとしてもかまわなかったのか。私が……」 薬師は気がついた。若君様の肩が、ぶるぶると震えていた。大きく息を呑み、ゆっくりと言い継いだ。 「おまえが死んだとき、どんな思いをするか、思い及ばなかったのか」 「妾は……」 珠里は白い額に汗を浮かべ、苦しげに続ける。 「離れるくらいなら、死にたいと思ったのです。わかぎみさまとも、子供とも、もう会えなくなるくらいなら、いちばん幸せなうちに――」 若君様が右手を振り上げ、再び珠里の頬を打った。派手な音がした。 打たれた珠里は臥牀に伏した。 「申し訳ありません……」 若君さまは、嗚咽する珠里を抱き起こした。 「もういい」 泣き濡れた顔を両手で包み、頬を袖で拭っている。 「覚えておけ。私のものを傷つけたら許さぬ。失くしても許さぬ」 「はい」 「玉のように慈しめ。絹のように扱いに気を配れ。おまえが私にしてくれるように扱え」 「はい」 泣き濡れた声で答える珠里に、若君さまは呆れたように言う。 「……わかっているのか? おまえのことだぞ」 珠里はきょとんとし、次にぽっと頬を染めた。 「おまえは、私だけでなくこの子のものでもあるのだぞ」 そうして、かたく珠里を抱き締めると、深く深く息を吐いた。 これ以上は自分の出る幕ではなかった。 薬師はそっと房室を退出した。 |