風車の節 番外編
真夜中の横顔




 真夜中であった。
 薬師はお屋敷に与えられた自室を出て、若君様の房室(へや)に向かう。戦から戻った若君さまは、疲弊しているうえ、肩に矢傷を受けていた。もう何日も熱が下がらず、一時も目を離せない状況であった。
 手燭を手に廊下を進み、朱家のご家族の住まう一角に入る。黒い扉の向こうが若君さまのお部屋である。今は、乳母の娘の珠里が若君様に付いているはずだった。
『もうお役に立てないのだから、せめて、看病くらい』
 そう言って、珠里は夜通し若君さまの房室についた。薬師は止めたけれど、珠里は聞かなかった。嘉耶も反対しなかった。
 珠里は、幾月か前に子供を流したばかりだった。月のものもまだまともに訪れず、からだの調子も優れないのに、自分を苛めるような真似をする珠里が、薬師には歯がゆい。
 それも無理からぬこととは思う。
 珠里の幼くやせぎすのからだは、骨細く、腰が狭く、必ずしも子を産むのに向いているとは言いがたい。その母である嘉耶も、若いころに流産を繰り返したという。薬師は、もう次の子は望めまいと二人に伝えていた。
 それだけでなく、若君さまは殊更に珠里に冷たく当たる。他の二人の妾は、美貌で明るく、明らかに珠里と比べてご寵愛深い。それを穏やかに受け止めてなお、珠里は若君さまにお仕えしている。
 それはおそらく、嘉耶のためであろう。
 十四年離れて暮らした母を、珠里は生まれたての雛鳥のように懸命に慕っている。年頃の娘らしい暮らしも、自身の操も投げ打って母の思うとおりに振舞おうとする様子は、傍から見て痛ましいほどだった。
 何もそこまで、と薬師は思う。薬師は嘉耶の若君さまへの献身ぶりに感心してはいたが、娘の扱いだけは解せなかった。
 扉に手を掛け、開きかけた。
 若君さまの軽いうめきに重なって、女の声が微かに聞こえた。
「……妾(わたし)がずっとおそばにおります」
 珠里だった。
 そっと覗き見ると、珠里は臥牀のうえの若君さまの手を両手で包んでいた。ぼんやりとした明りに照らされて、その横顔は優しげで切なげで、心を締め付けた。
 他の側女に比べて見劣りする、十人並みの赤毛の娘。優れたところといえば茶を淹れるのがうまいことと気が細やかなところくらいで、他に何の美点もない娘。
 その珠里が、この上なく尊く見えた。
「はやくお熱を下げましょう。奥方さまもきっと、わかぎみさまがお健やかになられるようお祈りくださっていますから」
 やさしい言葉に、薬師は彼女の心を知った。
 房室に入るのが躊躇われたが、やむなく扉を開いて中に入った。
 珠里はもう若君様の手を離していた。
 すぐに薬師に気づき、微かに笑う。
「老師(せんせい)、ちょうどよかった」
 珠里は、氷を取りに行くといって、若君様を薬師に任せて部屋を出た。
 途端に、房室が冷えきったような気がした。
 薬師は臥牀のなかの若君様のご様子を診る。まだ熱はおさまらないが、息は落ち着き、脈も穏やかだった。
「ん……」
 若君さまが苦しげに寝返りを打つ。
 うっすらと目を開いて、額に手の甲をあてる。ちょっと驚いた薬師は、慌ててその顔を覗き込む。
 潤んだ黒い目が薬師を見つめる。
 自分の後ろに、若君さまは何かを探していた。
「……いま、……」
 若君さまが、掠れた声で何か言う。
「あれが――」
 それだけ口にして、若君さまは目を閉じる。
 笑いのかたちに唇をゆがめ、そのまま眠りについたようだった。
 たったそれだけの出来事を、どうしてか、薬師は忘れることができなかった。
 




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