Souvenir

  3 小城と貴婦人  

 オーギュストは、国境を越えた後、雪に降りこめられた小さな城に彼女を連れてきた。
 明るい森に囲まれた、女性的なかわいらしい趣の館だった。
 車寄せで馬車を降りて彼女が目にしたのは、館の入り口から、ほっそりとした貴婦人が小走りに近づいてくる姿だった。
 歳は四十ほどだろうか。
 髪を結いあげてネットで覆い、紺色の簡素なサーコウトをまとっている。
 その人はオーギュストの前で貴婦人の礼をとると、後ろに立つ彼女を見つめた。
 杖を見たその人は、泣き出しそうな顔をして、彼女を抱きしめた。
「フェリシテさま。ああ……」
 彼女は突然の出来事にびっくりして動けずにいた。抱きしめる腕も、髪をなでる指も、柔らかく、温かい。そして、ほのかな花の香りがした。
 婦人がすんすんと鼻を鳴らしはじめたころ、やっと彼女は我に返った。
「あの……」
 声をかけると、横からオーギュストが答える。
「エチエンヌだ。この城を任せている騎士の夫人で、おまえの養母」
「養母……」
 彼女が繰り返すと、エチエンヌは少女のような泣き顔を恥ずかしそうに拭いながら、からだを離す。
「ええ、おかえりなさいませ、フェリシテさま。ああ、こんなところで長々とごめんあそばせ、馬車の旅でお疲れでしょう、暖炉であたたまってくださいませね……」
 エチエンヌは貴婦人の顔に戻り、侍従に館の扉を開けさせ、二人を中に導いた。通されたのは暖炉でじゅうぶんに暖められた白漆喰の壁の部屋だった。暖炉の前の長椅子をすすめられ、オーギュストとともに腰を下ろす。女中が、湯気の立つぶどう酒を運んできた。
 その間も、彼女は杖はしっかりと握ったままだ。
「閣下は今日はお泊りになっていらっしゃるのでしょう? お部屋は、いつものようにご用意して……」
「いや。馬の支度が整い次第、ロインダールに戻る」
「まあ、せっかくご一緒においでになったのに……」
「それより、これををよろしく頼む。急いだばかりに着るものも用意してやれなかった」
 オーギュストが目のはしで彼女を見やる。
 彼女は、自分の衣服を見下ろした。村を連れ出されたときのままで、外套だけオーギュストのものを借りている。粗末だと思いたくはなかったが、この部屋の中では明らかに浮いていた。
「ご衣裳は、ご結婚前のものも、こちらに遊びにおいでになったときのものも、みんなとってございます」
「必要があればいくらでも作らせていい。それから、なるべく早く医者を呼べ」
 エチエンヌは痛ましそうな顔をして頷く。
 オーギュストはそのほかにもいろいろと短く指示を出したあと、ぶどう酒を飲み干した。そのとき、ちょうど侍従がやってきて、出立の準備ができたと告げた。
 オーギュストは立ち上がり、出てゆこうとする。
「知らせをくれれば迎えを寄こす。よろしく頼む」
 彼女は思わずその後ろ姿を目で追っていた。けれど、彼は振り向くことなく去って行ってしまった。
 彼女は一人取り残されたような気分になり、俯いた。
「フェリシテさま……」
 心配げな声がかかる。
 エチエンヌが、絨毯の上に膝をつき、彼女の顔を下からのぞきんだ。
「わたくしはエチエンヌ・ド・イウロ、この城を預かる騎士ブノワの妻、おそれながらあなたさまの養母でもあります。お話は閣下から伺っています」
 その言葉に、この人も自分が記憶を失くしていることを知っているのだとわかった。
 エチエンヌは白い手を伸ばして、杖の上に重ねた彼女の両手に触れる。
 白い滑らかなエチエンヌのそれに比べ、荒れて肌がかたくなったおのれの手が恥ずかしくなり、思わず目を反らしてしまう。
 エチエンヌはきっと気づいているだろうに、ぎゅっと確かめるように手首を握ってくる。
「フェリシテさまには、しばらくこちらにご滞在いただくことになります。ここはフェリシテさまの実家でもございますから、どうぞ、ゆるりとくつろがれて。今の季節は雪で外にあまり出られはしませんけれど、図書室には本がたくさんありますし、音楽室にはハープも置いています」
 エチエンヌは優しげに言った。
 彼女は小さくうなずいて、声を絞っておそるおそる尋ねてみる。
「ありがとうございます。あの、教えてください。エチエンヌさまが養母ということは、私の本当の両親はどこにいるのですか」
 尋ねると、エチエンヌは目を細めた。
「お父上は都の学者で、国中を回られて法学を究めておられたと聞いていますが、七年前にお亡くなりになりました。オーギュストさまが幼いころの家庭教師でいらっしゃいましたの」
 彼女は小さくうなずいた。
「お母上については、あまり詳しく存じ上げません。十五年ほど前にお亡くなりになったとしか……。お父上が国中を旅しておられましたから、フェリシテさまはほとんど修道院で過ごされていました。お父上がお亡くなりになってからご結婚されるまでも修道院におられたそうですね。ご結婚前、閣下のお命じで、わたくしたちが養父母ということになりましたの。夫は今はロインダールの……、閣下がお住まいのお城ですけれど、そちらにおりますので、ご挨拶かなわないのですが」
「そう……、そうですか」
「閣下は何もお話しになりませんでしたの……? ほんとうに、何も?」
 エチエンヌの目は不安げだった。
 彼女は、エチエンヌが何かを伝えかねているのだと感じ取った。
 エチエンヌは視線をさまよわせ、唇を震わせたが、何も言わなかった。
 彼女はエチエンヌの肩越しに暖炉の火を見つめる。薪がぱちんと爆ぜ、崩れた。
「あの、それから。私はこれから、どうなるのでしょう」
「はい。しばらくこちらでご静養いただいたあと、ロインダールのでのお支度が整い次第、お帰りいただくことになります。半月後か、ひと月後か……」
「帰ったら、そのお城で、あの人の妻として暮らすのですか?」
 エチエンヌの顔がこわばった。
 エチエンヌの両手の下、自分の左手にはめられた指輪が、とても冷たく感じられる。
 あの男の指にも同じ指輪がはまっていた。
 それが、自分を苦しめ、縛る、くびきのように思えた。
「私、とても、伯爵さまのお城でなんて暮らせません。私は、田舎の村のただの女なんです。自分のことを、身分のある人だったなんて思いもしませんでした。今でも、人違いなんじゃないかと思って……」
「フェリシテさま……」
「何も思い出せないんです。何も……」
 エチエンヌは彼女の肩に手を伸ばし、そっと撫でた。
 背中を、繰り返しゆっくりとなだめられると、喉からこらえきれない嗚咽が漏れた。
「赤ちゃんのことも、後からお医者様に聞いただけで、思い出してあげることもできない。でも、あの人はそれでもいいと言ってくれたんです。大丈夫だって、思い出すまで、一緒にいようって」
 あの人と、彼女が呼ぶ相手がすり替わっていることにも、エチエンヌは気が付いているだろう。
「私、あの人に何も言ってないんです。昨日の朝、あの人が狩りに出かけるのを見送って、それきりなの。きっと、私を探してる……」
 彼女は、この二日間、繰り返し脳裏に描いた夫の姿を思い出す。
 彼女のつくろった、継ぎはぎだらけの狩猟服の背中を。
 エチエンヌは黙ったまま、再び彼女を抱きしめる。
「フェリシテさま……」
 掠れるような泣き声で、エチエンヌは名を呼んだ。
 彼女が呼ばれたいのは、その名ではなかった。でも、アナと呼んでくれる人はもう側にはいない。自分自身が、選んで、置いてきてしまった。
 母のような人の腕に抱かれながら、彼女は目を閉じる。
 しばらくそうしているうちに、日が落ちて、部屋は暗くなった。
 暖炉の火だけがあかあかと燃え、女二人を照らしていた。



 夕餐の前に着替えをと、エチエンヌは彼女を奥の部屋に連れて行った。
 エチエンヌは、侍女に手伝わせながら、暖炉のそばに置いた大きな長持から何枚ものコタルディとサーコウト、それから刺繍帯を取り出した。
 長椅子の上に、色とりどりの服が花弁のように並べられる。
 彼女はしばしそれに見入った。
「これがよろしゅうございましょう」
 エチエンヌは、白てんの毛皮の縁取りのサーコウトと灰色のコタルディを選び、彼女を着替えさせはじめた。
 人前に肌を晒す戸惑いに、彼女は視線だけをさまよわせた。
 けれど、脱いだ衣服を侍女が持ち去ろうとするのを見て、思わず身じろぎしてしまう。
「フェリシテさま?」
 エチエンヌが手を止めた。
 彼女は声を絞り出した。
「その服……」
 侍女の捧げ持つ籠の中で、彼女の茜色の毛のスカートと繕いだらけのブラウスは、まるでけものの骸のように見えた。
「捨てないで。とっておいてほしいんです」
 エチエンヌが遠慮がちに言う。
「ロインダールにお持ちいただくことはできませんが……」
「かまいません。お願い、捨てないでください」
「……かしこまりました。後で洗わせて、こちらでお預かりしておきましょう」
 彼女は頷いた。
 預かりましょう、そう言ってもらえたことが、ささやかな救いに思えたのだった。
back | works | next