Souvenir
1 光の花
冬の陽光は、千色にも万色にも彩られて、高窓から祭壇に注ぎ込む。
赤、藍、紫。緑、黄、そして白。
そのまるい窓には色とりどりの硝子がはめ込まれて、色をもたないはずの光に、大輪の花の姿をまとわせた。
かつて、異国の城の礼拝堂にあったステンドグラスだという。
どれほどの時を経て、どのような人の手を渡ってきたのか。今は、国境の小さな村の、小さな教会の小さな窓を飾っている。
この窓の下で、女はいつも、その数奇な旅に思いを馳せる。
しんと静まり返った教会の、身廊の中ほどに、彼女は立っていた。
黒髪を頭巾の下に隠し、はしばみ色の目をまっすぐに高窓に向ける。着ているものは村の女と同じ、粗末な麻のブラウスに毛織のスカート。そして、左の手には樫の杖を握っていた。
冷たい空気が揺れて、彼女の頬にかすかに触れた。
立てつけの悪い扉から、隙間風が吹き込んだのだろう。
この村は貧しい。教会の建物は古く、安息日ともなると人が入りきれないので、日に三度もミサをあげねばならない。信者は小作人がほとんどなので布施も少なく、司祭は自分の畑を自ら耕し、自分の牛の世話をするしまつ。温厚な老司祭は、人々にとても愛されているけれど。
女は、その村の裏山に棲む、猟師の妻だった。
年は十九か、二十か、彼女自身にもわからなかった。
なぜならば、彼女には、二年前より昔の記憶が全くなかったから。
彼女は二年前の秋、二つ向こうの山の谷底で川に流れ着いているところを、猟師のマチアスとその二頭の猟犬によって拾われた。見つかったとき彼女は白い亜麻の下着だけを身につけていて、右足に怪我を負っていた。
マチアスは、彼の住む山小屋に彼女を連れ帰った。冷え切った体を温め、医者を呼んで彼女を診せ、怪我の手当てをし、ひたすら彼女が意識を取り戻すのを待った。
三日三晩眠り続けた彼女は、目を覚ましたとき、自分の名さえ覚えていなかった。
栗色の髪に茶色の目の見知らぬ男は、ごくごく短い言葉で彼女を落ち着かせた。
「おれはマチアスという。君を拾った。でも、大丈夫だ」
彼は山のふもとの教会の司祭や村役人に彼女のことを知らせてくれたが、彼女に関することは何もわからなかった。さらに、その年の秋は稀に見る不作で、司祭にも村人の誰にも、氏素性の知れぬ怪我人を養う余裕はなかった。
司祭と村役人は、一帯を治める領主、フィナゴ伯に届け出て、彼女の身柄を預けることも考えたそうだが、熟慮の結果取りやめになったという。フィナゴ伯は国王陛下や高位貴族と親しいが、民に好き放題に賦役を課したり、農夫の妻を奪って城に囲ったりと、領民にとって決して良い領主とは言えず、彼が身寄りのない若い女を預かり、どのような所業に及ぶかは、おのずから知れることだった。
この村に限らず、領内のどこの町や村でも、伯をして、隣の邦(くに)の領主さまと取り換えてもらえるならどれだけいいかと噂するのだ。
身を寄せる場所のない彼女に、マチアスは言った。
「思い出すまで、ここに居たらいい」
そして、名前がないのもふびんだと、アナという名前をつけてくれた。
せめて足手まといにはなるまいと、彼女は療養につとめ、歩けるようになると家の中の仕事や猟犬の世話を自然と手伝うようになった。
怪我は高いところから落ちて岩か何かに打ち付けて裂けたもので、完治することはないと言われていた。傷口がふさいだ後も、常人のように歩くことは難しかった。
マチアスは樫の木を削って、彼女に杖を作った。
杖のおかげで、彼女は週に一度は粉引きとパン焼きのためにふもとの村にもおりられるようになった。安息日にはマチアスとともにミサに出た。
教会に通ううち、自分が、この国の言葉とともに古語の読み書きができることを知った。また、教わった覚えはなくとも、詩篇をそらんじ、薬草や毒草の見分けをつけ、教会のパイプオルガンを弾くことができた。そのような教育は、女子修道院でしか受けられなかった。
「アナはおそらく、われわれの姉妹だったのだろうね」
司祭はそう言い、今でも彼女のことを知る者がないか伝手を辿って調べてくれている。もしも仮に自分が修道女だったのだとしても、悪い誰かにかどわかされたか、厳しい修道生活に耐えかねて逃げ出したか、よいことではなかろうと思っているけれど。
一年たっても彼女は何も思い出さなかったし、彼女を探す者が村や山小屋を訪れることもなかった。
事情を知らない村の人々は、彼女はマチアスの妻だと疑わなかった。マチアスは、そう呼ばれて困った顔をする彼女に、本気にするなと眉を寄せて言うだけだった。そして、からかう村人に無愛想な声で、「アナを困らせるな」と言った。
はじめから一年後まで、山の中でも、家でも、マチアスは変わらなかった。
一人で暮らした期間が長かったからなのか、生来の質なのか、表情をあらわにせず、言葉数は限りなく少なく、ほとんど行動でもってのみ意思を示した。猟師としての腕は素晴らしく、二頭の忠実な猟犬を従えて、よい獲物を狩った。
彼女に何も求めず、かといって押し付けることもなく、ただ時折、とても優しい、けれど熱っぽい目で、彼女のことを見つめるだけだった。
彼女は、それに知らぬふりができなくなっていた。
彼と暮らし始めてから一年半がたった春のある安息日。
朝のミサからの帰途、ふたりは寄り添ってゆっくりと山道を登っていた。杖をついても、彼女の歩みは子供のように遅い。それにあわせて、大柄なマチアスも歩いていた。
山小屋まであと少しというとき、彼女は小さな石につまずいた。杖が手から離れ、からだが前のめりに倒れかけたが、マチアスが横から抱きとめてくれた。
「ありがとう……」
口にしたものの、彼女は顔を上げられなかった。
強い腕に抱かれて、頬が熱くなるのを感じた。
マチアスは、彼女の体を離さなかった。彼女も離れようとは思わなかった。
男の胸に顔を伏せると、彼の胸も早鐘のように鼓動しているのがわかる。
「アナ」
彼は押し殺した声で呼んだ。大きな、武骨な手が震えていた。
共に暮らしていた間、少しずつ少しずつ積み重なっていたものが溢れて、せきとめられなくなっていた。
彼女がマチアスの首筋に自分の鼻づらを押し付けると、彼は応えるようにその体を横抱きに抱え上げた。思い出したように杖を拾い、強い足取りで山小屋への道をゆく。家にたどりつくと、小さな寝台に彼女を座らせて、慌ただしく扉を閉めた。
「アナ」
マチアスはゆっくり歩み寄って来て、蜜蝋の灯りを見るかのように、眩しげに彼女を見下ろした。
「いいか」
尋ねられて、彼女はおそるおそる問い返す。
「あなたは、いいの。私は普通には歩けないし、それに、知っているでしょう……」
「言わなくていい。そんなこと、いいんだ」
強く言いきると、待ちきれぬように彼女を抱きしめ、頬に手を当て、唇を重ねた。藁の匂いの寝台のなか、もつれあうように互いの衣服を脱がせ、肌を合わせる。
相手の熱と愛撫を受け止めて、同じだけの温もりと優しさを返す。
その喜びを、かつて、自分は知っていた。
誰に抱かれ、どうして、その男の子どもを身ごもりながら失ったのか。もう、思い出そうと悩むのはやめよう。
彼に名を呼ばれながら抱かれて、彼女ははじめて、アナという女になりたいと思ったのだった。
その翌月に、二人は教会で結婚の許しを得た。
ほとんど毎晩、彼女は夫に愛されて眠りにつくようになった。それ以外に二人の生活はほとんど変わらなかったのだが、最近、マチアスは妻に言いだした。
「村に住まないか」
「まあ、どうして?」
「教会に行くにも、竈や粉引き場を借りに行くにも、ここからじゃあ、つらいだろう」
彼女は笑って首を振った。
「もう二年近くもずっとだもの、慣れてしまったわ」
「今すぐにではないんだ。いずれ、そう出来たらいいと思っている」
「そうね、約束ね」
いつか子供ができたときに、村で暮らせたらいいと、そのとき彼女も思ったのだった。
今日彼女は、来週に村人の結婚式があるから、オルガンの練習に来てくれと司祭から呼び出されていた。彼女はいつもよりも早起きし、遠出の狩りに出かける夫に弁当を持たせたあと、山を下りてきた。
司祭には、客が来ているので先に聖堂の中で待っていてくれと言われている。しばらく経つが、彼が現れる気配はなかった。
彼女は身廊をすすみ、祭壇の右側の壁に据え付けられたパイプオルガンの前に立つ。
杖を壁に立てかけ、オルガンの鍵盤蓋に触れたそのとき、人の足音が聞こえた。
祭壇の裏で、香部屋に通じる扉が開いた。
出てきたのは、背の高い、黒い外套をまとった男だった。
年は三十ほど、ほとんど銀色のような金髪に、ステンドグラスの光の下で薄い緑色に見える瞳。村では一度も見たことのない顔だ。
ミサの支度をする香部屋には、聖堂を見渡せる透かし窓がある。司祭と侍者以外はめったなことでは入れない場所だ。そこから現れた男は、ただ人とは思われなかった。
彼女は男に体を向け、会釈した。
「はじめまして。……司祭さまのお客様でいらっしゃいますか?」
彼は、端麗な眉をひそめた。
「……フェリシテ」
彼は、薄い唇の合間から、呻くように言った。
彼女にはそれは、彼自身というよりも、女の名のように聞こえた。
微かに小首を傾げた彼女に、男は、吐き捨てるように呼びかけた。
「フェリシテ・ド・レンジュー。私はおまえの夫だよ」