静かの夜にぞ白は儚き 番外編2 案内されて入った病室は、狭く、ただ白かった。 白い壁、白いベッド。 軋む床を踏み締めて扉を背に立った藤原を、汀はいつものように穏やかな瞳で迎え入れた。今までと違うのは、ここが五年間ずっと二人の逢瀬の場所だった遊郭ではないことと、彼女が身に付けているのが着崩した鮮やかな色の着物ではないことだけだ。 「こんにちは」 小さな声で彼女は言った。 「……怒っていらっしゃるのね」 答えない藤原の顔を見て、曖昧に笑み、汀は目を伏せた。 初めにそのことを女将に聞かされたとき、藤原はただ憤った。なぜ、一番の上客である自分に知らされなかったのか。汀に嘘をつかれたということに、子供のように苛立ちを覚えもした。 藤原は、椅子には掛けず、ベッドから少し離れたところに立った。手にしていた花束を、椅子の上にそっと置く。 「申し訳ないとは思っています。でも、これでよかったんです」 彼女は真っ直ぐに藤原を見つめた。 怒りが醒めてからは悔しさが沸いてきた。病んでいた汀に気づけなかった、そんな自分が腹立たしかった。 だが、汀を前にしてみれば、また別の感情を抱かざるをえなかった。 「もしも、もっと前にこのことをご存じだったら、義之さんはとても怒って、私によくしてくださったでしょう?」 彼女の言っていることの意味がわからず、藤原は汀を凝視した。 「義之さんが私に思いをかけてくださっていることを、知らなかったわけではありません。お気持ちはとても嬉しかった。あんなによくしてくださったお客様は、私は存じ上げません。どれだけお礼を申し上げても、足りません」 「……そんなことが聞きたいのではないよ」 わけのわからない苛立ちのままに、藤原はそう言ってしまった。汀は少し目を見開き、微かに苦笑する。 「だから、私は義之さんに応えることが出来ませんでした。ただ女郎として扱われるほうが気が楽でした。私は、どなたかのご好意を受け取ったり、どなたかに想っていただくことが、本当に不得手でした」 澄んだ黒い瞳が、ひたむきに藤原を見つめる。 そんな汀を見ていると、彼女が本当に自分を愛しているのではないかと錯覚してしまう。 「でも、それではいけなかったんです。それでは、人形と同じ」 汀は目を伏せた。 甘く藤原の名を囁いたあの声も、優しく抱きしめてきた華奢な腕も、今となっては全てが遠かった。目の前にいる汀は、藤原の知っている彼女よりも小さく見えた。あのただ美しく優しいだけの、藤原が魅せられた幻ではなかった。確かに生きているという暖かみが、彼女からは感じられた。 汀の肌は白かった。藍地の浴衣の袖から覗く手首は、驚くほど細かった。 「こんなことを言って、不快にお思いになるかもしれません。でも、義之さんには知っておいていただきたいんです」 黒い長い髪がさらさらと揺れた。いつも結われないでただ背に垂らしてあった髪。藤原は彼女の髪を指で梳くのが好きだった。 「私はもう、香春郭に戻ることはできません。近いうちに……たぶん、もう一月もしないうちに、死んでしまうのだと思います」 彼女の口唇から語られて始めて、藤原はそれを事実なのだと認めることができた。今までは信じまいとしていたことが、はっきりと形をもって示されてゆく。 「長い間、本当にお世話になりました」 「そんな、堅苦しい挨拶は抜きにしてくれよ」 言うと、彼女は静かに笑った。 「……最後に一つだけ、お願いをしてもよろしいですか?」 ああ、と藤原は頷いた。 着物も宝石も、一度もねだってくれなかった汀。彼女が欲しがるのならばたとえどんなものでも手に入れてやろうと思っていたのに、彼女は何も望まなかった。 「何だい」 尋ねた藤原の耳に口唇を寄せ、汀はたった一言を藤原に伝えた。 驚いて汀の顔を見ると、汀はいたずらっぽく笑っていた。だがその笑みはやがて消えて、彼女は穏やかな瞳で藤原を見つめた。 「かなえてくださいますか?」 「……難題だな」 「いけませんか?」 「いや、構わないよ。君の頼みならね」 「……ありがとうございます」 「その代わり一つ、聞きたいことがあるんだが」 何かしら、と汀は小首を傾げた。 「……その……君には」 我ながら、格好のつかない情けない問いだとはわかっている。聞いてよいことなのかもわからない。ただ、自分が知りたいだけだった。 「情人がいたのかい」 一気に吐き出して、藤原は目を閉じた。 汀はしばらく黙っていた。 おそるおそる目を開けると、汀は、目を瞠って藤原を見ていた。 いつか同じことを訊いたとき、汀は半ば泣きながら否と答えた。弱々しく首をうち振り、そんなものはいないと言った。 「ええ」 彼女ははっきりと頷いた。 「……どんな男だい?」 「不器用で、無愛想で、頑固な人です」 藤原は少し驚いた。そんな男のどこがいいのだろう。 「だから、私には似合いです」 少し納得できないところがあったが、藤原は言及するのをやめた。汀が、これ以上ないほど幸せそうな顔をしていたからだ。自分は、四年間彼女の傍にいても、あんな顔をさせてやることはできなかった。 「もう一つ、聞きたいんだが」 藤原は、小さく咳払いをした。 「君の名前は何と言う?」 「……はつせといいます。西成初瀬」 藤原には、目の前にいる初瀬という女と、汀という遊女が、全く違う存在のように思えた。 彼女の死に際してはじめて、自分は汀の本当の心に触れることができたのかもしれない。今まで夢の中に生きていたような美しい遊女が、無邪気で愛らしい生身の女へと変わっていく。 「それが、どうかなさいましたか?」 「いや。いいんだ」 自分はもう一度、この女に恋をしたのかもしれない。汀と初瀬という二人の女は、それぞれ藤原を引き付けてやまなかった。 「そろそろ御暇するよ。……これがもう最後になるんだろうけれど……。こういうときの挨拶は、何て言えばいいのかわからないな」 元気で、というのは少しおかしいような気がする。 「……さよなら」 この目にはっきりと汀の顔を焼き付けておこうと思うのだが、視界がぼやけてきた。だが汀に涙を見せるのはためらわれた。 藤原は背を向け、扉の取っ手に手を掛けた。 「義之さん」 藤原は振り返らない。 「ごめんなさい……ありがとう」 藤原はゆっくりと扉を閉めた。 痛みを伴う甘い疼きが、まだ胸に燻っているのがわかって、藤原は口唇に笑みを刻んだ。 |