静かの夜にぞ白は儚き 番外編 今度はどんな人があたしの姐さんになるんだろう。 それが気になって、綾は眠れない。 何度も何度も寝返りを打っていたら、隣の早苗にうるさいと言われた。だから、天井を見上げなが らじっとしている。 香春郭には三十人近くの遊女と十人余りの禿がいる。ここへ来て四年、たいていの姉女郎とは顔を 会わせている。禿が部屋持ちの遊女の世話に付くわけだが、先週まで綾の姉女郎だった人は、馴染み の客に落籍されてここを出ていってしまった。 彼女は美人だったが感情の起伏が激しくて、少し怒りっぽくて、人使いが荒かった。洗濯や食器洗 いもさせられた。煙管で叩かれたこともある。 七つのときから世話になっていたが、綾は結局、彼女のことが好きになれなった。 綾はもうすぐ十一になる。おそらく次の姉女郎になるその人が、綾の水揚げの面倒を見てくれるの だろう。前の人のような人でなければいいけれど、たぶん無理だろう。 ここは高級娼館で、囲われている遊女も誇り高くて一癖ある者ばかりだ。同じ頃ここに来て同じ部 屋で寝起きしている早苗の姉女郎も、たいそう気位の高い人らしく、早苗は苦労しているようだった。 綾の姉女郎になる人は、ここで一番の遊女だと聞いている。水揚げは十四と少し遅めだが、それか らたった一年で太夫になったという一流の女郎だ。 一度だけ、その太夫を掠め見たことがある。 花魅道中に出る前の彼女は、実に重そうな衣装を着て、高下駄を履いて、髪を結い上げていた。真 っ白な顔に紅い口唇、目は大きくて、誰よりも華やかで、まるで人形のようだった。何も喋らずに立 っているだけだったから、いっそう生きていないように思えた。 怖いくらい綺麗な人だった。 彼女は一番いい部屋を貰って、女将が認めた客しか取らないのだという。 きっと群を抜いて高飛車で、我儘であるに違いない。そして自分は水揚げされるその日まで、台所 の下にいる鼠のようにきりきり走り回って、びくびくと怯えながら過ごすのだろう。 「そんなのやだ……」 こっそりとそう零し、綾はぎゅっと目を閉じた。 いつの間にか、綾は眠ってしまった。 襖が音を立てて開いて、暗い部屋に光が差した。 綾はその音で目を覚ました。早苗も一緒に身体を起こしている。 「あんたたち、まだ寝てたのかい? 全く……」 布団の側に立っていたのは女将だった。 いつも厳しい表情をしていて、近寄りがたい。たぶん、話したことがあるのは、綾が何かまずいこ とをして怒られたときだけだろう。それもかなりきつい口調で叱られるので、綾は女将の前では萎縮 してしまう。 遊女たちはみんな彼女のことをお妣さんと呼ぶけれど、綾にはとてもできなかった。遊女たちが強 いられて呼ばされるのではなくて、親しみと尊敬のようなものを込めてそう呼ぶから、ますます出来 ない。 だから綾は女将の顔を見るなり、固まってしまった。 「ほら、綾、さっさと着替えるんだよ。汀の所に連れていくからね」 新しい姉女郎は、汀という名前だった。 吉原指折りの遊女。想像もつかないくらい身分の高い客と、対等に渡り合う太夫。そんな人が姉女 郎になるなんて。きっと、想像もつかないらい恐ろしい日々が始まるのだ。 「辛気くさい顔してるんじゃないよ。あんた、袷が反対だよ」 言われて初めて、着物の袷を逆にしていたことに気がつく。慌てて左に戻して帯を巻く。そこでも 結びを間違えて、訳の分からない形に結ってしまって、女将に直された。最後に寝癖の付いたままの 髪をなで付けられた。綾の髪は硬くて多いので、皆と同じに肩で切り揃えられていても、いつも右の 方だけがはねる。 それくらい綾は平静ではなかったのだ。 全然気が進まなかった。だが、そんなことを言っても、女将は引き摺ってでも担いででも綾を汀の ところまで連れて行くだろう。 綾は急いで廊下に出た。本館の一階に下りてから、渡り廊下を通る。 太夫の部屋は大きな方の離れの奥にあった。今まで付いていた姉女郎は別の離れに部屋を持ってい た。こちらに入ることはあまりないので、きょろきょろと辺りを見回していたが、すぐにその部屋に 着いた。 途端に綾は緊張してしまった。この向こうには、あの日見た人形のような太夫がいるのだ。そして 、忙しく悲しい日々が始まるのだ。 「汀、起きてるかい」 「……はい」 小さな声がした。 そんな綾を余所にして、女将はさっさと襖を開けた。大股で中に足を踏み入れる。綾はそっと中を 覗き見た。 「わあ……」 正面の大きな窓が開いていた。桜が満開らしく、窓枠一杯に桜の花が見えた。 浴衣を着た女がいた。 長い髪を垂らしている。化粧っけのない白い顔。 彼女は窓の珊に肘を付き、ぼんやりと外を眺めていた。 綾がどきりとしたのは、彼女が素足を惜しげもなく畳に放り出しているからだ。そんなはしたない 格好をする女を、綾はここに来てから一度も見たことがない。 その様子は、あまりにも記憶にある太夫と違いすぎている。 黒目がちの大きな瞳が女将を見上げ、その次に綾に向けられた。 「新しい禿の子だよ」 彼女は綾にゆったり微笑みかけた。それは昔垣間見て、怖いくらい綺麗だと思っていた太夫の姿で はなかったけれども、あのときよりもずっと好きだと思った。 思わずそれに見惚れてしまい、綾は微動だにできない。 「早くお入り。ぼうっと突っ立ってるんじゃないよ」 女将に腕を引かれて、綾は汀の正面に座らされた。その間も、綾の目は汀に釘付けだった。不躾な くらいじっと見つめていたから、汀はまた笑った。 「おはよう、綾ちゃん」 まだ名乗ってもいないのに、汀は綾の名を呼んだ。 綾はきょとんとして女将を見る。女将も意外そうな顔をしていた。 「あんた、知ってるのかい?」 そう尋ねた女将に、汀は答えた。 「お妣さんがしてたでしょう。マツエ姐さんのところの頑張りやの子の話」 「そうだったかね」 「いい子だって、いつも言ってましたよ」 マツエとは、綾が付いていた遊女の名前だった。頑張りやの子とは自分のことなのだと気がついて 、綾の顔は赤くなる。 「いつも姐さんの周りで忙しそうだったから、顔を覚えてたの」 汀は膝の上の綾の手を取った。びっくりして手を引っ込めようと思ったが、汀の手が冷たくて優し かったので、やめた。 汀は、綾の手指を見つめていた。 「……働き者の手ね」 細くて白い指先が、綾の乾いた手を労るように擦る。洗濯と食器洗いをしていて、よかったと思っ た。 高くて細い声なのに、決して耳障りではない。むしろ空気に滲みるように響く声だ。 「綾ちゃん、これから、よろしくね」 「あ、は、はい……」 「何だい、その気の抜けた返事は。あんた、そんなんじゃ汀の世話はできないよ。汀はマツエの倍は 客を持ってるんだからね」 女将の言葉にびっくりして、綾は汀を見た。彼女は困ったように、そうなのよ、と言った。 恐ろしく忙しくなるのだとわかったが、一度は覚悟をした身だ。こんな人になら扱き使われてもい いかも知れない、と綾は思った。 「頑張ります」 出来るだけ大きな声でそう言ったら、汀も女将も、にっこりと笑ってくれた。綾が女将のことをお 妣さんと呼べるようになるのは、すぐ後のことだ。 |