ウブリエット





 らせん階段を駆け上った先で、青年は立ち尽くしていた。
 そこは、朱色に染まっていた。
 格子窓から差す夕日影、敷き詰められた緋色の絨毯。
 女が、大きななきがらを抱いていた。甲冑を纏ったしかばねは、息絶えてどれほど経つのか。広がった血だまりが鉄臭く臭うのを厭いもせず、女はただ、部屋のただなかにうずくまっていた。
 青年は、乱れた息を今度は詰めなくてはならなかった。抜き身の剣を鞘にしまい、ゆっくりと部屋に踏み入った。鎧は耳障りな音をたてたが、女には聞こえていないようだった。
 青年は、女の名を呼んだ。
 女の緑色の目は、思い出したように数度、瞬きをした。そのほかには、彼女はみじろぎひとつもしなかった。
 もういちど、彼はせき立てられるように呼んだ。
 女は顔をあげた。翡翠のいろの瞳は、幼さの残る小さな顔のなか、夕日に照らされて不思議に輝いて見えた。彼女の目は青年の姿を認め、揺らいで、閉じられた。
「――果てたか」
 女は応じなかったが、答えは二人のあいだに転がっていた。
 死んでいるのは、青年の父だった。そして、この城のあるじでもあった。城を攻めたのは青年だった。反旗を翻して一年もたたぬうちに、息子は父を討ち取ったのだった。
 なきがらは、女の胸に顔を埋めていた。右腕はだらりと絨毯のうえに垂れ、左腕は肘から先が千切れかけていた。甲冑の脇を縫った矢が、深く胸を貫いていた。それが死因であったのだろう。
「ならば、話がはやい」
 青年は女に歩み寄り、死体の肩を掴んで床に転がした。
「共に死ねとでも迫られたか? 果たせず力尽きるとは、相応しすぎて言葉もないな」
 女が、屠られたばかりの家畜のようなしかばねに取りすがる。それが、青年には不快だった。
「なぜ、離れぬ」
 血に染まったほそい腕が、青年の父であったものを、いまやなんの力も及ぼさぬ肉の塊にすぎぬものをまもるように抱いた。
「これは、おまえを――」
 その先は言葉にならず、青年は苦い唾液を飲み込んだ。
 女は、父が焼き滅ぼした土地の、領主の娘だった。王妃暗殺の嫌疑をかけられた領主を、怒り狂った父は裁きも経ずに即刻打ち首にした。彼の無実が明らかになったのは、一族郎党が皆殺しにされたあとだった。
「おまえの全てを奪った男だぞ」
 亡くした妃の代わりに、父は幼い娘を宮廷に招きいれた。ひとり生き残った領主の娘を、我が子とともに養育した。我が子以上に溺愛し、彼女の願いなら叶えられないことはなかった。
 それに驕るような彼女ではなかったけれど、彼女は確かに自分がいつくしまれていたことを知っていた。養父の罪を知らぬまま養父を慕い、十五にまで成長し、花のような乙女になった。青年と彼女は、庭園で将来を誓い合ったばかりだった。
 口さがない貴族たちの噂話に、ふたりは、彼女の一族の末路と父の暴虐を知った。そして、それに気づいた父が、彼女を誰の声も届かぬ、誰の手も及ばぬ場所へ閉じ込めた。
 人々は父が女を殺したのだと噂した。父が狂い始めたのはそのときからではなかったからだ。
 父は、抗議する青年を僻地に退けていた。青年には、彼女が死んだはずがないという確信があった。妃を失ったときに心の均衡を失いかけていた父は、罪滅ぼしに女を側に置くことで、ようよう正気を保っていた。
「憎いだろう。死んで嬉しいと思っているのだろう?」
 子供のような必死さで、青年は言い募る。忌まわしい死体を引き剥がし、彼女のうすい肩を掴んで揺さぶった。
 まるい瞳が潤んで、ひとつぶ涙をこぼした。その一滴は頬をすべり、血に汚れたコタルディに染みた。
 女は父の慰み者になったのだと、青年は信じて疑いはしなかった。怒りと妬心を大義のしたに包み隠して、青年は父に刃を向けた。人心を失いつつあった父を、滅ぼすことはたやすかった。
 この女のためだった。
 囚われの愛しい女を取り戻すため、人倫の道に逆らった。
「答えろ」
 彼女が、汚れた両手で顔を拭った。まるで子供がぐずるかのように、からだを青年から離そうとする。細い首すじが彼を誘った。そこは血に汚れず、白いままだった。
 骨ほそい肩を掴み締め、青年は立ち上がった。女を引きずって、部屋の奥にある寝台へ向かう。荷物のように天蓋の中へ投げ込んだ。青年は慌しく甲冑を脱ぎ捨て、すぐに覆いかぶさった。
 何をされるか気づいたのか、女はやっとあらがい始めた。
 青年は、血に染まったコタルディを引き裂いた。悲鳴のような音が、静かな部屋にいやに響いた。
 女が、目を開いて、青年を見上げていた。
 その怯えの色に、彼はひるんだ。
 かつて、一人になることを寂しがるように彼のあとを付いてまわり、眠れぬ夜には寝床にもぐりこんできた幼い少女。年頃になり、よそよそしく接するようになったすまし顔の彼女。一緒になろうと言ったとき、ほころぶような笑顔を見せた、愛しい乙女。
 その女が、今は、猛獣でも見るような目で彼を見る。
 思わず手を止めて、自ら引き破った女の胸元から目を反らす。
 手を離してやり、寝台の掛け布を押し付けた。
「すまぬ」
 青年は、おのれの前髪を掻き毟る。
「どうかしている。どうかしているんだ。おまえが父の慰みものにされたかと思うと、気が狂いそうになる」
 奥歯を噛み締め、呻きをかみ殺す。震え始める血塗れの両手に、そっと冷たい指が触れる。女が、顔を覗き込んでいくる。
「おまえ、口が聞けなくなったのか」
 そう訪ねると、女は小さく首を振った。
「……いいえ」
 静かな声だった。青年は、短い一言に、震えるような心地がした。
「ただ」
 女は目を伏して、花びらのような唇を噛む。
「言葉をおもいだすのに、時間がかかるだけ」
「どういうことだ」
「この部屋に」
 女は、ほそい首を巡らせて、部屋のなかを見回した。
 白漆喰の壁、緋色のやわらかな絨毯。二人が掛けている豪奢な寝台に、胡桃材の卓と、椅子がふたつ。牢の一室であることを忘れさせるような調度だった。
「この部屋に閉じ込められたとき、私は、殺されるのだとおもいました」
 彼女は掛け布を引き寄せて、あらわになった胸元を隠した。
「はじめてここにおいでになったとき、陛下は泣いておられました。私の一族を滅ぼしたことを、何をもって贖ってもよいと、許すと言わねばここから出さぬとおっしゃるので、私は、陛下の命が欲しいと申し上げました」
 いたいけな乙女がどれほどの苦悩に蝕まれたか、それを思って青年の胸は怒りに満ちた。彼女は、憎悪や怨嗟とは無縁のところで生きるはずだった。そういうふうに守ってやろうと思っていた。
 女は寝台を下り、横たわる死体と少しはなれたところにしゃがみこんだ。
「陛下は、他に欲しいものはないのかとお尋ねになりました。わたくしが答えぬと、毎晩おいでになって同じ問いを繰り返されました。けれど、私は、今日のこの日まで、二度と口を開きませんでした」
 女の手が震えながら床を這い、何かを探り当てた。短剣だった。鞘から引き抜かれ、絨毯に打ち捨てられていた。父のものだった。
「陛下は、私に指一本お触れになりませんでした。そんなことは、きっと、思いつきもなさらなかったのでしょう」
 彼女の手が、短剣を父のなきがらの胸に置いた。
「――ここにいらしたときには、もう、お体の血も尽きて、呼吸もままならぬほどでした。命をやりにきたのだと、陛下は笑って、私にこれを握らせました」
 青年は、父の死体に目を走らせた。
 その血塗れの肉塊に、刺し傷を見つけることはできなかった。
「できませんでした。憎みきれないほど憎んでいたのに、自分の手で息の根を止めたいとまで思っていたのに、私はまともにこれを握ることもできなかったのです」
 膝を抱えて、女は俯いた。
 小さな嗚咽を零して、彼女は泣いていた。
「許すと言って差し上げることもできなかった。陛下はただ震えるばかりの私の顔を包んで、優しいむすめだと、すぐにあなたが迎えに来ると、そうおっしゃって、それがさいごでした」
 青年は、立ち上がって、父の遺骸を見下ろした。
 はじめてその顔を見た。
 表情は安らかだった。
 青年は、ふと思った。
 父は、死にたがっていたのではあるまいか。
 償うために死のうと、そう思って、狂ったふりをしてすべてを擲ったのではなかろうか。息子も、忠臣も、民も城も国もすべて、そっくりそのまま捨て置いて。
 青年は、女の横に膝をついた。
 ゆっくり手を伸ばして、彼女の小さな頭を抱き寄せた。女はからだの力を抜いて、そっと青年に肩を預けた。
 日はいつしか暮れて、部屋はにび色の闇に閉ざされる。
 赤い爪月が窓の格子にかかるころ、ふたりは静かに塔を下りた。