天使の海 娘は海を、物語の中でだけ知っていた。 山も、川も、鳥や獣も、みな触れるどころか目にしたこともなかった。 娘にとっての世界は、城の北に高く孤独にそびえたつ、塔の一室だったのだから。 豪奢な刺繍の窓掛け、磨き抜かれた飴色の家具。緋色のじゅうたんは足首が埋まるほど柔らかであたたかい。 極上の調度を揃えられたこの部屋は、なるほど高貴な婦人が住まうのに十分な場所であるだろう。大きなふたつの窓に、鉄格子がはまってさえいなければ。 娘は、生まれたときからここにいた。 産声をあげてまもなく、乳母とともにこの塔に連れてこられたのだという。いらい、十四になるこの日まで、日に一度の散歩のときのほかはこの部屋を出たことがない。 娘は名前を持たなかった。乳母は娘のことをお嬢様と呼び、他の従者たちもそれに従っていた。 窓の外からは城が一望できた。渡り廊下で忙しく立ち働く侍女たち、テラスに立ついかめしい顔つきの男たち、中庭を駆ける子供や動物。娘は慌ただしくも生き生きとして暮らしている彼らを見るたび、紙芝居を見せられているような気持ちになるものだ。 娘は朝早く目を覚まして、朝食を食べ、午前の間は刺繍や読書をして過ごす。午後には半刻ほど塔の屋上を散歩して、午睡のあとは窓辺で外を眺めている。 同じことの繰り返し、退屈で退屈でしかたない日々。 外に出たい。 娘は一度だけ、乳母にそう言ってみたことがある。 そのとき、娘はたったの四つか五つだった。一緒に遊んでくれる友達がほしくてほしくてたまらなかったのだ。娘の話し相手は乳母ひとりきり。身の回りの世話をする数人の侍女と従者は、娘と口をきくことを禁じられていた。 乳母は言葉をなくして、凍りついたように動かなくなった。震えていた大きな手を見て、自分はこの一言を口にしてはならないのだと悟った。 娘は毎日を窓辺で過ごした。流れてゆく雲、のぼっては落ちてゆく日、きらめく星をながめつづけた。城にすむ他の人間のことは見たくなかった。娘の手も声も彼らには届かないし、届いたとしても、誰も娘を助けてはくれないのだ。 それは、娘がまだ幼いころだった。 廊下をいつも一人きりで歩いている女がいた。 きっと、台所の下働きかなにかだったのだろう。やさしげな風貌のとしかさの女に、娘はしだいに親しみを覚えていった。女が何か物を落とした拍子に廊下で立ち止まった。娘は女に声をかけた。 「ねえ、毎日ここを通るのね!」 女は見た目にも明らかにびくりと肩を震わせた。 そしておそるおそる娘の立つ窓を見上げ、娘の姿を凝視した。それもほんの一瞬のこと、女は落とした物も拾わずに城の中に走り去ってしまった。 そのときから、娘は城の人間を観察することをやめた。 十になったころ、なぜ自分はこんなところに閉じ込められているのかを考えるようになった。娘の部屋に大きな鏡が運び込まれたのも、このころだったように思う。 私は醜いからこんなところにいるのだろうか。それとも、知らぬ間に罪を犯していたのか。私のお母様とお父様は、私がいらなかったのだろうか。 鏡にうつるおのれの姿は、若い侍女や中庭の子供たちと何一つ変わらないように見えた。黒い長い髪、闇色の瞳、白い肌。 娘は自分の体のあらゆるところを探った。てのひら、内もも、肩、背。どこかに魔女のしるしがあるのかもしれない、そうすると自分は魔女なのだろうか。 しかし、娘の全身にはしみどころかほくろの一つも見当たらなかった。 十四になった春、娘はもう一度だけ乳母に言った。 「ばあや、ここから出たいわ」 すっかり年老いてしまった乳母は、もう驚かなかった。娘が外の世界に焦がれていることを、彼女は知っていたのだろう。 「何かほしいものがございますか。ばあやから従者に頼んでさしあげます。ですから、ね、そんなことをおっしゃらないでくださいまし」 「何もないわ。何にもいらないの。ここから出たいの、それだけなの」 「いけません。外に出たら、お嬢様は生きてはいかれないのですよ」 「それでもいいわ。一度だけよ。外に出たいの」 「ずっとここにいらっしゃるほうが、お嬢様はお幸せでいられるのですよ」 娘は眉をひそめた。 幸せという言葉が、娘には理解しがたかった。 娘は唇をゆがめた。 「こんなところに幸せがあるというの。わたしがいま幸せだと思うの。死んでいるようなものだわ。ここから出られないなら、死んだほうがましよ」 娘は激情にかられていた。小さな顔を紅潮させて訴えた。娘が乳母の前で心の闇をあらわにしたのは、おそらくこれが初めてのことだった。 乳母は痛々しそうな顔をして逃げるように出ていった。 もつれる足で追いかけたが、扉は無情にも閉まってしまった。 鍵の音が冷たく響いた。 広い部屋には娘がひとり取り残された。 娘は窓へ走った。 木戸を乱暴に開き、格子のあいだに両腕を伸ばした。 その手はまるで助けをこうように、何かを掴むように動いた。 しかし、鉄格子の向こうで、小さな手は空を掴むばかり。 「死んでもいいわ、ここから出たい!」 喉が裂けるほど娘は叫んだ。 けれど、声はむなしく空に吸い取られてゆく。 娘の頬を熱い雫がつたった。 一度堰がこわれると、もうとめる術はなかった。 娘は、物心ついたときからの記憶を呼びさましては、その不条理に泣いた。 自分の名前さえ知らないこと、父母の顔を見たことがないこと。 乳母の他の人間とは、ほとんど口をきいたこともないこと。 窓が二つきりの豪奢な牢獄に生きてきた十四年のあいだ、嬉しいことも楽しいこともひとつもなかったこと。 娘は、このままここで成長してゆく自分を脳裏に描いた。 乳母は自分よりも先に死んでしまうだろう。そうしたら、自分は本当にひとりぼっちになってしまう。やさしいばあやを亡くして、誰かと言葉をかわすこともなく、ただ食べて眠って生きていて、老いて死ぬのを待つのだろうか。 大好きなばあや。自分と一緒にこんなところに閉じ込められてしまった、かわいそうな人。自分さえいなければ、ばあやは家族とともに暮らしていられただろうに。 日が暮れるころには、声も涙も涸れて、泣くこともできなくなっていた。 娘は床にしゃがみこんでいた。 手入れをかかさぬ髪は乱れ、ドレスには涙の染みができていた。 娘は立ち上がる気力もなく、床を這うように鏡に近づいた。 鏡をのぞき込み、娘は息をのんだ。 ひどいありさまで床に座り込む自分の後ろに、黒い人影が立っていたからだ。 娘は振り返った。 黒い服をまとった男が、娘を見下ろしていた。 金色の髪に青い目、乳の色の肌。従者の男たちよりもずっと背が高く、華奢な体躯。 英雄物語の主人公のようだ。英雄はみな黄金の髪に青い目をしていた。 唇にやさしい微笑みを浮かべながら、彼は床にかがみこんだ。 大きな手が、娘の乱れた髪を撫でた。 娘は驚きのあまり、瞬きさえ忘れていた。半ば開いたままだった唇をようやく動かす。 「あなた、だれ? 新しい従者なの? どこから入ってきたの?」 彼は笑みを深くした。 「名前を聞くときは、はじめに自分から名乗らなくてはいけないよ」 娘は男にみとれた。 優しい声。男性の声を、娘は初めて耳にした。 娘は目を伏せた。 「ごめんなさい。わたし、名前がないの。だから教えてあげられないわ」 男は娘の髪をすく手をとめた。 「僕も一緒だ。名前がないんだ」 娘は顔をあげた。 「どうして? 外の人にはみんな名前があるのではないの?」 「僕は人じゃない。だから名前がなくても困らないよ」 娘はまじまじと男の顔を見つめた。 手を伸ばして男の体に触れた。肩、首、顔。耳、髪。 みな自分と同じように暖かく、乾いた感触がした。 「きみ、外に出たいの?」 娘はうなずいた。 「出たいわ」 「僕がここに来たのはね、きみの声が聞こえたからだよ。本当に出たいのかい? 死んでもいいと、心からそう思うかい?」 「ええ」 彼は娘の肩を抱いて、娘を立ち上がらせた。彼は娘の顔をのぞき込んだ。 「君の願いを聞いてあげるかわりに、僕が君の命をとっても?」 娘は肩をすくめた。 「悪魔のようないいかたなのね」 「そう、僕は悪魔だ。命と引き換えにどんな願いでも叶えてあげる。いいだろ? さっき、きみは死んでもいいと言ったじゃないか」 娘は男にくるりと背を向けた。 あきれて言葉もない。悪魔だと名乗るなんて、気が違っているのだろうか。黒い衣を着ているなんて気取っている。そんな男がこの塔に上がってこられるはずはないけれど、娘はこの男の言うことが信じられない。 「悪魔なんか、いるはずがないわ」 言い放ち、娘は男を真っ直ぐに見据えた。 「神様がいないんだもの。悪魔だけがいるなんて、変な話」 「なぜ、神がいないと?」 「祈っても祈っても、願いなんてかなわないもの」 「……そうだね」 男は寂しげに言った。 娘は、男の美しい瞳の底を見つめた。 深い深い青。海の色。 物語で読んだことがある。 海は、あらゆる生命をはらんで、澄み切ってかがやく、大きな大きなみずたまりなのだという。 「あなた、海を見たことはある?」 「ああ、あるよ。いろいろな海を見た。地にはさまれた海、宝石のような青色の海、氷のたくさん浮いた海、それから、海がまっぷたつに割れるところを見たこともある」 「本当に?」 「そう。老賢者が杖を振り下ろすと、目の前の海が二つに裂けて、道をつくった」 娘は目を輝かせた。 「あなたはそこにいたの? それはいつのこと?」 「ずっと昔のことだから……」 「わたし、あなたのこと信じてもいいわ。わたしをここから出して、海を見せてくれたら、あなたが悪魔だって信じてあげる。そうしたら、私の命を取ってもいい」 男はきょとんとした顔をしている。 「いいのかい?」 「ええ、いいわ」 男はふたたび微笑んだ。 悲しげに見えるほど、その瞳はやさしかった。 「目を閉じてごらん」 なんてきれいな声なのだろう。低く、透明で、限りなく柔らかな。 男の声を遠くに聞きながら、娘は意識を闇に委ねた。 男は、階段を上っていた。頂上はまだ遠い。螺旋階段の果ては、かすんで目には見えないほどだった。 真珠色の城は、床も壁もまばゆいほど明るく輝いていた。男は、真白い衣をまとった者たちとすれちがった。男もまた、同じ衣を着ていた。 男は水色の透明なかたまりを抱いていた。 てのひらにおさまるほどの大きさの、硝子球のようなかたまりだった。 男は大切そうに、それを抱えていた。 女が階段を下りてくる。彼女は男に声をかけた。 「あら、おひさしぶりね。今度のはずいぶん小さいのねえ。でも、澄み切ってきれい」 女は水色のかたまりを見ている。 「そうだろう」 男は愛しげに手の中のかたまりを見つめた。磨き上げられたたくさんの面に、海の景色が映っているような気がした。 「どんな人間だったの? 待って、当ててあげるわ。さみしがりやね。水色は孤独な人の色だもの。そんなに若くして……かわいそうなひと。でも、とても気持ちのやさしい……」 彼はうなずく。 「……黒い髪に黒い目だったというだけさ」 「人間の世界には、おかしな決まりがたくさんあるもの。運が悪かったのね。次は、いいところに生まれられるといいわね」 彼女の部屋におかれた鏡。あれがいったい何のために据えられたものだったかなんて、考えるほどに気分が悪くなる。 「ああ」 挨拶をして彼らは別れた。 彼は立ち止まったまま、てのひらの中のかたまりを見つめた。 娘の横顔を思い出す。 白い美しいおもて、風になびいていた艶やかな黒髪。真っ青な海を目の前にして、黒い星のように輝いていた大きな瞳。 『あなたのことを信じるわ。ありがとう、お願いを聞いてくれて』 娘は無邪気に微笑んだ。 なぜ彼女が閉じ込められて育ったのか、理由を知らないまま死んでいいのかと、彼は尋ねた。彼女は答えず、顔を上げた。 『きれいな髪と目ね。お話のなかの英雄みたいよ』 彼女は、おそらく、知っていたのだろう。彼はそう悟った。 彼女は、みずから小さな白い手を彼に差し出した。 彼は彼女の手にくちづけた。 頼りない体は床にくずおれ、透明な水色の流れだけが彼の手にとどまった。 彼のしたことは罪だった。天の描いた筋書きよりも早く、娘の魂を奪ったのだから。 けれど、彼女はすぐに命を失ってしまうはずだったのだ。 彼は知っていた。 思いつめた乳母が、彼女を短刀で刺して、みずからも命を絶つはずだった。 ただ、彼女の叫びがあまりに悲痛だったから、彼女の魂があまりに無垢だったから、彼は何かをしてやろうと思ったのだ。悪魔のふりをして、彼女の最初で最後の友達になった。遠い遠い海まで駆けた。 疲れきった乳母が娘の部屋に入ってきたとき、娘はすでに床の上でこときれていた。彼女の魂は彼の手の中にあったからだ。 彼女の魂は、涙を流しながら背を丸めて去っていく乳母を見ていた。 あれからあの女はどうしたのだろう。塔を下りて、もとの暮らしを取り戻してくれていれば、娘も喜ぶことだろう。 彼は眉を寄せた。こんなふうに人間のことを考えるなど、自分らしくない。 この魂を天に送り届けたら、次の仕事をはじめるのだ。 彼は階段をのぼりはじめた。 けれど、のぼりきるまでのあいだは、あの娘のことだけを考えていよう。 |