運命の石 公爵の恋





 ソランジュは高熱に苦しみ抜いた。うなされながら、夢うつつで、許婚や伯爵夫人、そして公爵夫人を呼び、ごめんなさいとうわ言のように繰り返した。
 意識が戻ったのは三日後の朝だった。
 駆け付けた公爵が、彼女に赤子が流れたことを告げた。彼女は告げられる前から気付いていたのか、取り乱すこともなく、聞いていた。
「……すまない……」
 公爵が押し殺した声でそう言った。
「私が殺したようなものだ。私が……」
 ソランジュは彼を静かな目で見つめて言った。
「わたしの罪の報いです……」
 もう言葉を紡ぐ気力もないのか、辛そうな様子を見せたので、公爵はそれ以上何もソランジュに言うことはなかった。
 コンスタンスはつききりで看病したが、ソランジュの容態は悪くなる一方で、食べ物を受け付けない体はみるみるやせ細っていった。起きているより死んだように眠っている時間のほうが長くなっていき、目覚めても声もなく泣くばかりだった。
 公爵は手を尽くさせ、自らも長い時間病床に付き添った。
 ある日、眠るソランジュの前で、医師が公爵に、彼女が二度と子供を望めないだろうと告げた。公爵はコンスタンスにかたく口止めした。
 ソランジュは、かつてのおのれの言葉に呪われたかのように、少しずつ命の灯を小さくしていった。






 暖炉で火が燃えている。
 コンスタンスはソランジュの寝室で、ぱちぱちと薪が爆ぜる音を聞いていた。
「コンスタンス……」
 か細い声に呼ばれ、はっとして寝台のなかに目を遣る。一日のほとんどの時間を眠っているソランジュが、珍しく目覚めて、こちらを見ていた。
「いかがされましたか」
 コンスタンスの問いかけに、ソランジュは小さく頷いた。
「お願いがあるの」
「何でしょう?」
 ソランジュは穏やかな目をしていた。
 まるで、ほふられる前の小鹿のような。
「教えて。私はもう、子供を産めないのでしょ」
「何を……、誰がそんなことを」
 声を険しくしたコンスタンスを、ソランジュは切なげに見つめる。
 眠っていたと誰もが思っていたとき、彼女は目覚めていたのだろうか。
 コンスタンスは目を反らし、言った。
「お医者様は、お薬をきちんと飲んで、よく休まれ、滋養のあるものを召し上がれば、すぐに元気になれるとおおせでした」
「ありがとう、コンスタンス」
 ソランジュの白い手が掛布の上を這った。枕辺のコンスタンスの腕に触れ、手の甲にてのひらを重ねる。
「いつもお兄様からかばってくれましたね。子どものことも守ろうとしてくれて、今もこうして、休まずにそばにいてくれて。それに、あのとき――」
 ソランジュは、甘く囁くように語った。
「馬車で故郷を発ったときのこと。本当に感謝しています。お蔭で、あの方にお別れを言うことができた」
「感謝なんて……、私は、あなたさまの手ずからお作りになっていた婚礼衣装を……」
「いいの」
 ソランジュの翡翠色の瞳が潤んでいた。恋するように遠くを見つめていた。
「あの方のことは、いいの。子爵様もおっしゃっていた。もうかかわらぬほうが互いのため、消息も知らぬほうがいいと……」
 ソランジュは公爵の愛人になった後、一度だけ、許婚の主である子爵と言葉を交わしたことがあった。ソランジュは子爵に想い人のことを尋ねたのだろう。二度とは訪れないだろう機会をみすみす捨て切れず、おそらくは恥を忍んで。
「子爵様は、何もかもご存じで、ご同情くださっていたようだった。ただ、あの方の親代わりとして、あの方を守ろうとなさっただけ」
 ソランジュは細い右手を持ち上げて、おのれの手の甲を見つめた。
 まぼろしの指輪があるかのようだった。
「……あの方と初めてお会いしたのは、あの方が子爵さまの使者として屋敷においでになったときなの。そのとき、一言二言お話ししたけれど、 あの方は私が屋敷の娘だと気付かなかったのですって。それなのに急に求婚なさったのには驚いたけれど……」
 小さく首をかしげて、ソランジュはほほ笑んだ。
「あの方はご両親を流行り病で亡くされ、他の係累もなく、子爵様の後見を受けて、騎士になられていたの。 あの方が婚約のあかしにとくださった指輪は、あの方のお母様のお形見で、きれいな青玉が嵌っていた。澄み切った湖のような、深い色をした石だった。 主にささげた剣と小さなあばら屋のほかには、財産と呼べるのはこの指輪だけ。それでも一緒になりたいと、そう言ってくださった。 そのときに決めたの。この方と家族になりたい、子どもを産みたいって」
 青玉には、貞操を試す石という異名がある。持ち主が不貞を働くと、それを見抜いてみずから濁るのだ。
 乾いた唇が、泣き笑いのように弱弱しく歪んだ。
「はじめて旦那さまに抱かれたあと、私にはあの指輪が曇って見えた。わたしは、あの指輪にふさわしくなかった。あの方にふさわしくなかった。 それなのにいつまでも意固地になって、醜くあの方に執着して……。 でも、子どもができたときは、その子を産んだら、少し、救われるかもしれないと思ったの。私はあの方を、奥方さまを、二度裏切った。だから、罰は二度受けなければいけない……」
 一度目は身ごもった子を失うことで。
 二度目は子を産めない体になることで。
 泣き濡れた声で言葉を紡いだソランジュは、最後に、もう一度コンスタンスの手を握り、真っ直ぐに目を合わせた。
「決めたことがあるの」
 翡翠の目には、迷いや悲しみはなく、たた、決意があった。
「わたしは、尼僧院に行こうと思います」





 その晩、ソランジュは公爵のおとないを受けた。
 隣室に控えていたコンスタンスは、ふたりがどんな話をしていたのかはわからない。
 ただ、長い時間、話しこんでいたようだった。
 昼間、尼僧院に行きたいとソランジュに打ち明けられた後、コンスタンスは迷うことなく一緒に行くと申し出た。公爵が出家そのものを許せばの話ではあったが、ソランジュが世を捨てるのなら、最後まで供をするつもりだった。
 公爵が部屋を出てきた。そのまま私室に帰ろうとする公爵を呼び止め、コンスタンスは、無礼を承知でソランジュの願いを聞き届けてほしいと訴えた。
「あれが望むなら」
 公爵は遠くを見つめながら言った。
「私は今まで、あれの願いを叶えてやれたことなど、一度もなかったのだから」
 彼の声には、後悔が滲んでいた。




 
 コンスタンスは、ソランジュと自分の身の回りの物の整理を始めた。
 ソランジュは贈り物の宝飾品やドレスをみな公爵に返そうとしたが、頑として拒まれた。
 荷造りが済んだころ、ソランジュがコンスタンスに、一度だけでも実家に帰っておくように言った。
 家族とは、元より、コンスタンスからの一方的な仕送りだけでつながっていたような縁だった。今更別れの感傷などなかったけれど、会っておきたい者はいたので、ありがたく一日だけ暇をもらった。実家に帰るための馬車も公爵が用意してくれた。
 乗り込んだ馬車が着いたのは、しかし、実家ではなかった。
 コンスタンスが一度だけ来たことのあるアパルトマンの前だった。
 コンスタンスを迎えたのは、幼馴染であり、コンスタンスが出家の前に一目会っておきたいと思っていた青年だった。幼いころ結婚を約束し、けれど、コンスタンスが実家のために働きに出ることを決めたために、一緒になることを諦めた相手だ。
 数年前にこの場所を訪れたのは、彼に自分が働きに出ることを告げるためだった。
 彼は近衛兵として王宮に仕えているので、会おうとすれば許されたけれども、コンスタンスはあえて互いに手紙を書き送るだけの交流に留めていた。いつか幼馴染が結婚するときに妨げになりたくはなかったのだ。もし幼馴染が別の女と結ばれることはなくても、自分が添い遂げることは考えられなかったので、互いに別々に年をとるのだと思っていた。
 彼は、コンスタンスを出迎えるなりかたく抱き締めて、しばらく離さなかった。
 抱擁を受けながら、コンスタンスは一つのことに思い当たり、恋人の腕をふりほどいた。
「どうして馬車がここに着いたの。なんで、私が来ることを知ってたの」
 恋人は、黙って、一通の手紙をコンスタンスに差し出した。
 ソランジュの筆跡のものだった。
 読み終えて、馬車に飛び乗ろうとし、慌てる恋人に止められた。
 馬車はコンスタンスの荷を下ろすと、そのまま引き返して行った。
 コンスタンスは、自分が主にたばかられていたことを知って、泣いた。





『親愛なるコンスタンスへ。だますようなことをしてごめんなさい。けれど、そろそろ、あなたを待ってくれている方のもとに、あなたをお返しするときが来たのだと思います。これまでありがとう。どうか幸せになってください。あなたの友より』




 ソランジュは周到だった。
 公爵からの贈り物はほとんど売って金に換えてしまい、コンスタンスへの最後の手当――花嫁支度のためだという――として銀行に預けてしまっていた。また、公爵に頼んでのことだろうが、コンスタンスの実家に手をまわして、コンスタンスが結婚するのに支障のないよう家族をなだめてくれていた。
 ソランジュがコンスタンスに残したのは、短い手紙と幾ばくかの財産だけだった。
 彼女自身をしのぶよすがは、手巾一枚、髪の一筋すら残してくれなかった。
 残せば、コンスタンスが迷ってしまうことを知っていたのだろう。
 アパルトマンに送り届けられてから、数日の間、コンスタンスは茫然としたまま過ごした。そんなころ、二通目の手紙が届いた。
 公爵からのものだった。
 ソランジュは、尼僧院に行くことを申し出たのと同時に、公爵にコンスタンスの処遇について相談していたという。ソランジュはどうやら、かなり早い時期からコンスタンスと幼馴染のことを知っていたらしい。コンスタンスは幼馴染に毎週のように手紙を書いていたから、そこから気付いたのだろう。
 公爵は、ソランジュのことを気に病むな、思い悩むことを彼女は望んでいないと、そう書き添えていた。
 手紙には続きがあった。
 コンスタンスは二枚目の便箋を繰って、目をみはった。
 ほんの数日前、公爵は、ソランジュを、尼僧院ではないところに送り届けたのだという。
 尼僧院への迎えとしてやって来た馬車には、一人の騎士が付き添っていた。
 かつてソランジュの許婚だった男だった。
 公爵はひそかに隣国の子爵と連絡をとり、かの騎士の居所をたずね、彼がまだソランジュを想って独り身であることを知った。そして、公爵ができる限りの償いに、ソランジュを彼のもとに返すことにしたのだった。
 コンスタンスの脳裏に、二年前、まさにその離別を目の当たりにした、悲しい恋人たちの姿が映る。
 そして、数年を経て再開したふたりが、どんなやりとりをしたか、ありありと想い浮かべることができた。
 馬から降りた背の高い騎士が、か細い貴婦人の前にひざまづく。
 そして、彼女の白い手を取っただろう。
 彼女は驚いて、拒んだかもしれない。尼僧院へ入ることが自分の償いであり、慰めなのだと、彼をかき口説いたかもしれない。
 青年は、けれど、優しいしぐさで、彼女の白い手に青い石の指輪を返すのだ。
 ――その後、コンスタンスは風の噂で、二人が隣国に移り住み、教会の許しを得て結婚したと聞いた。





 ソランジュを手放したあとにも、公爵に恋のうわさは絶えなかったが、彼が自分の館に恋人を住まわせたり、子どもを産ませたりすることはなかった。
 晩年、病を得ると、彼は気に入りの海辺の別荘に移り住んだ。
 そして、領内の尼僧院に財産のほとんどを寄付し、死の間際まで、身寄りのない子どものために慰問を続けたという。




(了)



←back  works