ハーゴメリ子爵の手紙






 それはもう二十年ほど昔の事になるが、私の中では未だに鮮明な記憶だ。
 この国に、革命の勃発する前の晩のことだ。






 北方より、革命軍が押し寄せている。
 その報せはつい先刻王宮に届いた。
 途端に、蜂の巣をつついたような大騒ぎが起こった。
 そんな中で私は女王の姿をお探ししていた。
 高い悲鳴を上げながらホールを駆け回る貴婦人を避け、腹の出た貴族が集まって談義している横を擦り抜けた。そうしている彼らを冷めた目で見ながら、誰よりも動揺していたのはこの私だった。
 夕方に謁見を終えた後、陛下は夕食を取られなかったらしい。いつもならば几帳面なほど時間に厳しい方であるのに、今夜はたまたまのことであったのだろう。
 陛下はあまり華やかな場を好む方ではないし、少し神経質な面をお持ちだから、またいつものようにどこかで読書に耽っていらっしゃるのだろう。そういえば、風邪をお召しになっているとも聞いた。
 まだこの事をご存じないに違いない。
 それは、以前から噂されていた事ではあった。陛下が即位されるよりも昔からだ。
 陛下の御父上は、若かりし頃は絶対的な王政を築き上げ豪胆王と呼ばれるほどの才をお持ちだったが、老いるにつれて美食と色欲に溺れはじめられた。国税を食い潰し贅を貪り、民草を顧みられなくなった。王宮には娼婦紛いのたくさんの妾妃が召し抱えられた。彼女らのために先王は金を惜しまれることはなかった。
 それに倣う貴族が増え、またそれに乗じて政を己がものにしようとする野心家が増えた。 それは王の末期として珍しくはない堕落だったけれども、史上の王たちとは桁が違った。 取るに足らぬ身分の私が見ても、いや、下層の者になればなるほど、その異常さと自利ばかりを求める醜態が目に見えていただろう。
 しかし彼が亡くなり、年若い王太子であった陛下が王位に就かれて、王宮の腐敗は一掃されるはずだった。
 二十歳にもならなかった王女は、勤勉で正義感溢れる女性だったからだ。
 私は、年下の彼女を尊敬していた。
 女王はどこにもいらっしゃらなかった。姿を見たという者もいない。
 陛下は独りがお好きな方で、静かな場所を好まれる。だから普通ならば図書館か私室のいずれかにいらっしゃるのだが、その他に王宮に陛下がお一人になれる場所があるだろうか。
 それともとっくにこの事をご存じでいらっしゃるのか。
 そういえば、と思いあたった。城の最上階には、宮殿全体を見渡せる国王陛下のサロンがあった。先王の作られた四方が硝子張りの見事な御部屋だと聞いているが、私はそこに入ったことがなかったので、すぐにはその可能性を思いつかなかったのだ。
 女王は先王の作られた華美な離宮や豪奢な調度品を好まれてはいなかったが、そのサロンだけはなぜかお気に召した様子でいらした。
「……女王陛下!」
 陛下はやはりサロンにいらした。
 奥まった部屋の角の小さな椅子に掛けていらした。
 何か書き物をされていたのだろうか、テーブルの上には紙とペンと手紙箱が散らばっていた。
 部屋の四方の窓硝子は闇を映している。
 明かりは、女王の手元に置かれたランプだけだった。
 私がお呼びしてから少し経ってから、女王はゆっくりとこちらを向かれた。柔らかな黄色の光の中で、いつもと微塵も変わらぬご様子で、陛下は落ち着いていらっしゃった。
 地味な深い赤色のドレスに、栗色の髪を無造作に結い上げただけのお姿の陛下は、女王であらせられる御身というよりは、田舎貴族の夫人といった体であろう。
 決して醜くはないのだが、人目を引くほどの美貌をお持ちというわけでもない。肌が白いのはいいのだが、頬のあたりにそばかすが残っていらっしゃるのは少しばかり難点だ。体つきもそう豊かな方ではなくて、はっきり言えば痩せぎすだ。
 と、先程まで突然の報せに動揺していた私がそれを忘れ、このように女王の容貌を観察してしまうほど、女王は冷静でいらしたわけだ。
「なにごと?」
 息も荒くサロンへ駆け付けた私をご覧になって、何か大事が起こったと察されたのだろう。
 陛下は羽根ペンを置かれ、身体の向きを変えられた。
「そなたがそのように急ぎ慌てているとは、何か珍事でも?」
 女王は左眉だけを吊り上げられた。
 それは女王がよく私にお見せになる表情だ。
 口うるさい御目付役の私は、陛下が幼い頃から、二十年近く陛下にお仕え申し上げている。だが、陛下がこのように皮肉っぽいお顔をなさることは、即位なされるまではあまりなかった。
 素直で明るかった彼女は、国王になったと同時に翳りを持ち始められたのだ。
「反乱でございます」
 陛下は、今度は眉一つ動かさなかった。もしかしたら、私の言葉が陛下には聞こえていらっしゃらないのだろうか。
「女王陛下、いま一度申し上げます。反乱でございます」
 私が怒りを覚えるほどに、陛下の顔色に変化はなかった。薄い茶色の目を細め、僅かに顎を上げたまま、私の顔をご覧になっている。
 その意味がわからぬわけでもなかろうに。
「反乱軍?」
 つまらぬ冗談を聞いた者のように、女王は口唇を吊り上げられた。化粧気のない女王であるが、口唇だけは奇妙に赤い。
「馬鹿を申せ。反乱だと?」
 女王は、下らぬ、と吐き捨てられた。
「今までの一揆などとは規模が違います。反乱軍はこの王宮を目指しております。現在も進撃を続けております。明朝には到達するとのこと。数は十万を軽く超えております。その間にもますます増えていることでしょう」
 言い継ぐ私を、陛下はただ見上げられるばかりだ。
「筆頭に立っているのは、レフス・ハーゴメリという男です。北部で民衆や地方貴族の支持を集めて蜂起しました。有力な後見者が背後にいるようでありまして、火器の装備が一個大隊並、もしくはそれ以上とか。ハーゴメリの名は、ご存じですね?」
「……ああ、知っている」
「あちらからの宣告によれば、彼らは開城と王制の廃止のための陛下の処刑を求めているそうです。迎え撃とうにも、王宮軍は全て地方へ出向いております。呼び戻すにも時間がかかりすぎるのです。近衛隊だけでは十万の民衆を抑えることは不可能です。時期が悪すぎます」
 まるで諮られたかのようだ。
 女王は、テーブルの上の手紙箱に手を遣り、膝の上に載せられた。箱は木で出来た質素なもので、細工も荒かった。一国の女王が持つには、不似合いなように思われた。
「レフス・ハーゴメリは地方大学の教授です。政治思想を学び、幾らかの本も出版しております。殆どが発禁処分になりましたが」
「知っているよ」
「お読みになられたことは?」
「ある」
 それならば、陛下はなぜこのように平静を保っていられるのだろうか。国王として王宮の人間を御することもせず、保身を考え驚き慌てることさえない。
 彼女は手紙箱を開けた。その中には、一杯に手紙が詰まっていた。陛下はその一枚を取り出され、裏返し、懐かしむように筆跡を指でなぞられた。
 ランプの灯はささやかすぎて、私には女王の手元の文字までは見えない。
 陛下は、手紙を裏向けたまま、私に向けて差し出された。
 私は反射的にそれを受け取り、目を落として差出人の名を見た。平凡だが、私が知っている名ではなかった。封筒は銀蝋で封印されていたらしいが、見覚えのない紋章だった。
貴族の称号すらない。
「知らぬ名か?」
 そう問われて、私は頷いた。
 女王は微笑を浮かべ、箱から封筒を取り出された。それをテーブルの上端に置かれた。もう一枚をその隣に、また次をその隣に。封筒は、ゆっくりと広げてゆかれる。
 女王の小さな顔はランプに照らされて、いつもよりも血が通っているようにも見える。その表情がどこか満足げに見えるのは、気のせいなのだろうか。
 このような非常事態に、これほど落ち着いていられるものなのだろうか。私は疑問とともに、どこか空恐ろしさを感じていた。
 小さなテーブルは、あっという間に封筒で埋め尽くされた。その数は二十近いだろう。一枚一枚が分厚い。それでも手紙箱の中にはまだ大分残りがある。
「そなたであっても知らなんだか。まあ、無理もなかろう。それはレフス・ハーゴメリの名だ。ハーゴメリとは筆名なのだよ」
 私は、思わずその筆跡を凝視していた。
 それでは、このテーブルの上の封筒も、手紙箱の中身も、全てがハーゴメリからのものだとでもいうのだろうか。
 一体いつから、どんな理由で、二人は手紙を遣り取りしていたのだろう。
「まだ私が王太子で、彼も十代だった頃だ。彼の手紙が王宮へきた。だが、父上にそれが届くはずがない」
 国王への毎日の書簡の量は膨大だ。それを国王ひとりが処理することなど出来るわけもない。選別され、簡略化され、改竄されたごく一部のものだけが国王の手元へゆくのだ。
 その中に、平民の青年の手紙などはない。
「その頃の私は、父上の国政を目の当りにして、思念を燃やしていた頃だった。私がこの国を変えるのだと息巻いていた、愚かで実直であった頃の私だ。私は、処分されるはずの父上への書簡に手を出した。その中に彼の手紙があった」
 箱の奥底から、陛下は色褪せて黄味を帯びた封筒を取り出された。それを、手紙の並べられたテーブルの中心へ、そっと置かれる。
「私は、実に偶然にこれを見つけたのだ。そうでなければ、これは、封も切られずに捨て置かれていたのだよ。灰になるはずだったのだ」
 陛下の一番近くにお仕えしていながら、そんなことは露ほども知らなかった。
 初めの封筒を手にしたまま、私は一言も言葉を発することができなかった。
 政治能力に関しては、凡庸と呼ばれた女王陛下。若さとともに意志が弱まり、大きな父王の陰から抜け出せなくなったのだと思っていた。陰欝な女王となられた陛下は、国事を臣下に任せきりにしてしまわれた。無気力な、名前だけの存在となったはずだった。
 心の内を、決して人には読ませなかった方。
 その陛下は、まるで、恋をする少女のような瞳をされていた。
 それは、王太子であった頃に国政を変えようと奮闘されていたときの瞳だ。
 陛下のこんな表情は、久しく見ていなかった。
「私の理想は、この手紙に打ち砕かれた。ここに理想があったのかもしれない。私が思いつきもしないような……いや、私は彼の言うようにすることが最善の方法だと知っていたのだろう。だが決して出来はしないことを、彼は平然と語っていた。初めは、理想論だと思った。何と突飛な考えなのだろうと彼を馬鹿にした」
 陛下が何をおっしゃっているのか、私にはわからなかった。わかりたくなかった。
「彼はいきなりこう書いたんだ。革命を起こす、とね」
 それはすなわち、政の大枠の転換だ。貴族、平民、僧侶という階級を無くすこと。ハーゴメリの掲げる共和制は、国王を必要としない議会政治なのだ。
「私は擦り切れて破れるほど、これを読んだ。二年近く悩んだよ。やっと返事を書いたのは、父上が亡くなってからだ」
 それは、陛下が変わり始められた頃と重なる。
 陛下は、彼からの初めのものだという手紙を箱に仕舞われた。
「その、宛名を見てごらん」
 私は持っていた封筒を裏返し、手紙の宛名を見た。
 そこにはもちろん、陛下の名は書かれていなかった。
「……ニクラス・ファスハンダ・リドゥ・ハーゴメリ……」
 リドゥとは、子爵の位を意味する。
 学生だった頃のハーゴメリが書いた、貴族のハーゴメリ子爵への手紙。
 それはできすぎてはいないか。
「私は名を偽ってこう返信した。『私はたまたま君の手紙を目にし、いたく感激した。ぜひ援助をしたい』本当のことだよ。『我が家は、王宮に出入り出来る貴族ではあるが、それほどに身分が高くはない。歴代の当主は軍門にあった。先王の軍縮政策で零落し、国王に少なからず恨みを持っている』……これは、子爵家のでっちあげの経歴だが」
 ハーゴメリなどという王宮貴族はいない。女王陛下が、若い思想家と手紙の遣り取りをするための偽名だ。
「彼は少し疑念を持ったようだが、すぐに私を信用してくれた。そなたはハーゴメリの本を読んだことがあろう? あれは、彼の思想のほんの一部に過ぎぬよ。私は数え切れぬほど、彼と紙の上で談義した」
 彼を語る陛下の瞳は、やはり熱っぽかった。
 私はそれに、訳のわからぬ苛立ちを感じた。忠臣として陛下の勝手な行動を怒る気持ちはあった。だが、嬉しそうにハーゴメリの名を呼ぶ陛下に、私はそれとは違う感情を持った。
「彼は素晴らしい男だ」
 確かに、ハーゴメリの理想とする政治には欠点がない。王政の腐敗を事細かに観察し、その解決法を示唆し、議会政治のあり方を定義している。感心はしたが、それは私にとっては机上の空論に過ぎぬものだと思った。
 それが陛下の口唇から語られれば語られるほど、私は心が焼け付くような思いがした。
「彼は、北部の雪深い村で生まれた。冬は長く、土地が痩せて、不作が多い。村人の半分が餓死した年もあったそうだ。父上の治世の下でね。彼は国中を廻り、その目で人々を見た。私は彼を通じて、この国を見ることが出来たよ。おかしな膜を通してではなく」
 おかしな膜とは、私をはじめとした、側近の臣下のことを言っているのだろう。
 若い女王が、ただ斬新な理想を持った男に熱をあげているだけなのだとは思えなかった。それほど陛下の目は澄んでいた。
「ハーゴメリと私は、互いの顔こそ知らぬが、誰よりも理解しあえる友となった。彼は辛辣に国政を批判し、私はそれに賛同しながらも、胸が潰れるような思いがするのを我慢できなかった。彼を通して、私は私自身を見つめることもできた。彼は最初の本を出版するとき、私の名を使わせてくれと言った。私は喜んで了承した。だが、彼の思想は世間に認められなかった。彼はそれをすまなかったと私に詫びた。だが、謝らねばならぬのは私のほうだった。彼が認められぬ世であるのは、私の責任なのだから」
 女王はそっと目を伏せられた。
「私には勇気がなかった。年を取るほどに父上のことが思い出されてきた。一人では何もすることができない国王になっていた。そしてそなたたち臣下に政を任せきりにしてしまった。それに、もしも私が改革を行なったとしても、それは徹底的な改革とはならぬに違いない。これは私ではない誰かによって、為されねばならない改革だ」
「……陛下……」
「彼には、気概と才能があった。だが、後見者はいなかった。彼は金と準備を持たなかった。誰かが彼を支持せねば、彼は今までの者たちのように潰されていただろう。私には彼を認め、賛同することが出来た」
 陛下は、手紙をそっと摘み上げた。愛おしむようにみつめ、惜しむように箱に仕舞っていく。まるで手紙がハーゴメリそのものであるかのように。
 私は、暗い何かに、己が満たされていくのを感じた。
 そうだ。これは嫉妬だ。顔も知らぬ若い革命家に、陛下が私に見せたこともないような表情で名を紡ぐ男に、私は羨望と憎しみを抱いた。
「出来れば、彼と会って話をし、酒でも酌み交わしたい。十年以上もの付き合いなのだ」
 ランプの温かな灯に照らされて、陛下の顔に陰影が生まれる。
「……だが、それはかなわぬ。彼は貧村の出でなければあれほど素晴らしい思想を持つことはできなかったであろうし、私は国王でなければ彼を援助することができなかった」
 陛下は、真っ直ぐに私をご覧になった。私は胸のうちを見透かされたような気がして、何も言うことが出来なかった。ただ陛下を見返すだけだった。
「……その手紙を、開いてみろ」
 と、陛下は私が持っている封筒を指し示された。
 私はおっしゃるままに、便箋を取り出した。そこには、細い縦長のくせのある文字で、ハーゴメリの起こす反乱、いや革命について詳しく書かれていた。
 日時に始まり、その規模や構成、襲撃する予定の場所まで。私の見知った貴族の館も、その中に含まれていた。もちろん、この王宮も。
 手紙の最後には、ハーゴメリ子爵への感謝がしたためられていた。
 これらの言葉は、女王その人に向けられたものだ。
『革命が成功した暁には、必ずお会いしたい』
 強い筆跡だった。
 彼の願いを思わせるほど。
「彼は、私が子爵であるのだと信じきってくれている。私は彼の信頼を裏切りたくないんだ」
「では、陛下はいかがなされるのですか」
 尋ねた後、私はすぐに後悔することになる。
「……私は、処刑されるのだよ。彼の革命は、私が死ぬことによって完成される」
 私は言葉をなくした。
 信じられずに陛下の御顔を凝視した。
 だが、私は陛下のお言葉を受け入れねばならなかった。
 陛下は冗談を言うことのできる人間ではなかったからだ。
 女王陛下は、ご自身で、この国を革命家の手に引き渡すおつもりなのだ。長く続いたこの王朝を、売ったのだ。
 そう理解した一瞬後には、私の手は陛下の頬を打っていた。
 静かなサロンに、乾いた音が響いた。
 陛下は打たれた頬を押さえることもせず、微笑なさった。
 私はその表情を見て我に返り、無礼を詫びようとした。
 しかし、それよりも先に、陛下はゆっくりと立ち上がられた。
 時の流れが遅く感じられる。陛下は舞うような動きで歩み寄ってこられた。
「……おまえは、私のために長くも働いてくれたな。私は、おまえに支えられてきたようなものだ。さっきだっておまえは、我が身を顧みずに私を探してくれただろう。だから私は、おまえに、名誉を与えようと思う」
 私は言われていることの意味がわからず、茫然と近づいてくる陛下を見つめていた。
 陛下はどこから取り出されたのか、銅色の勲章を手にされていた。それに下がるリボンは赤色だった。
 薄い色の瞳が、いたずらっぽく瞬いた。
「おまえがハーゴメリ子爵になるのだよ」
 陛下はしなやかな白い指で、私の左胸にそれをお付けになった。
「な……」
「爵位など、塵にも足りぬ世になろう。しかし、この名を私のために貰っておくれ。彼は子爵を必要としているのだ。私の代わりに彼に会っておくれ」
 何と勝手な願いだろう。
「そのような事は、出来ません」
 陛下が処刑された後に、ハーゴメリを名乗って生きろと、陛下はそうおっしゃるのだ。陛下を躊躇いなく殺すだろう男と会うために。
「あなたをみすみす処刑させ、私は生き延びるなど、出来ません。私はあなたの目付役です」
 怒りにまかせてそう申し上げると、陛下は子供をあやす母親のように笑まれた。
 今まで、彼女を見守り、諫めてきたのはこの私だった。その陛下が、このように私に向かって微笑まれた。私の知らない女王陛下が、確かにここにいらっしゃっる。
 彼女の瞳には、決意が滲んでいた。その凛とした表情が、私を引きつけてやまない。
「おまえならば、必ず彼とわかりあうことができるよ。私のこの国を、ずっと見ていてやっておくれ」
 陛下は真摯な瞳で私を見上げられていた。
 壊れてしまいそうな華奢な身体が、私の目の前にあった。
 量の少ない茶色の髪、細い首、痩せた肩。決して美しいものではないのに、なぜこれほど心揺り動かされるのだろう。
「……陛下」
「なんだ?」
「……お慕いしております」
 なぜ今まで、告げることが出来なかったのだろう。このようなことになるまで。
 彼女には夫が無かった。
 戯れに恋の火遊びを仕掛けられることはあったが、彼女にとって男たちは、恋人である前に臣下だった。
 なぜ私はその相手に選ばれなかったのだろうと、心を痛めた夜もあった。戯れにでも身体を重ねることができたのならば、私はそれに満たされて、幸福に浸ることができただろう。その機会は私には十分にあったはずだった。
 彼女は夫を持たず、子を為さなかった。どれほど家臣たちに詰られても、彼女はそれだけはしなかった。
 この日のためであったのだとわかると、女としての幸せを手にすることが出来なかった陛下のお考えが思われた。
「……知っていたよ」
 私は、突かれたかのように顔を上げた。
 私の気持ちをご存じでいらしたのか。
 明るい少女であった頃の陛下も、沈鬱な表情で物思いに耽っていらした陛下も、私のこの苦い思いをご存じでいらした。
 ご存じでありながら、私にこの残酷な役目を果たさせようとなさっているのか。
 いや、自分が彼女の信頼に足る人間であったからこそ、彼女は最後の大役を私に任せてくださったのだ。
「おまえと彼とこの国を、同じくらい思っていたよ。だから私には、夫はいらなかったんだ」
 陛下はそうおっしゃると、はにかむように下を向かれてしまった。
「知らなかっただろう?」
 私はそのあまりに頼りない背を引き寄せ、陛下を抱きしめていた。
「……陛下……」
 陛下はしばらく身体を強ばらせていらっしゃったが、やがて頭を私の胸に任せてくださった。
 折れそうな身体が身を委ねてくるのを受けとめて、私は陛下の髪に触れた。髪の中に指を滑らせ、顎を上向かせた。
 陛下は穏やかな目をしていらした。
 赤い口唇に、そっと触れた。そして、何かを誓うようにくちづけた。
 キスは長く、深くなり、私は呼吸を奪うような激しさで口唇を重ねていた。あせりに似た激情に心を焼かれていく。
 陛下を気遣う余裕もなく、毛足の長い絨緞に倒れ込んだ。
 飢えた子供のように、無心に柔らかな身体をまさぐった。熱に浮かされ、必死で求めてきた私を宥めるように、陛下は応えてくださった。
 願わくば、この夜が永遠であるように。
 祈っているのは私だけではないのだと、私はそう思いたかった。






 革命軍は夜明けとともにやってきた。陛下はレフス・ハーゴメリと対面することを条件に城を開かれた。私はその場にいることが許されなかった。
 陛下は北方の離宮に一時幽閉されていらっしゃったが、すぐに牢獄へと送られた。そして革命のちょうど一年後、斬首刑に処せられた。
 だから私には、初対面ではあったが初めてではなかった二人の遣り取りを、知る術はなかった。
 私は陛下が最後に望まれた通り、ハーゴメリ子爵として彼と会った。彼は陛下のお言葉に寸分も違わぬ、立派な男だった。私はそのことに安堵した。
 だが、友人をそれと知らずに処刑した彼を、哀れと思わずにはいられなかった。
 私は陛下を探して城中を駆け回っていたあのとき、陛下をお連れして王宮を出る予定だった。私は以前からその準備を調えていた。たとえ陛下が私を拒まれても、無理にでも攫うつもりだった。
 だが、陛下のお心を聞いた後にそうすることは、できなかった。残酷なほど無邪気に微笑まれ、痛々しい決意をなさった陛下を、止めることはできなかった。
 陛下は私を受け入れてくださったが、それは私に務めを忘れさせぬための戒めだったのかもしれない。
 陛下はああおっしゃってくださったが、陛下は私のものにはなってくださらなかった。陛下は全てをこの国に捧げられる覚悟をなさっていた。
 鮮やかすぎたあの夜を思い出せば、切なさとともに苦さを噛み締めることになるのだが、私は子爵と呼ばれるたびに、どうしようもない悦びに心が震えた。
 しばらくは、陛下とハーゴメリの願った通りに歴史が動いた。
 貧困に苦しむ民は減ったが、あまりに独創的なハーゴメリの思想に周囲の者たちはついてゆけなくなり、彼はおいやられることになってしまった。
 心臓を病んだ彼は、陛下が亡くなられてから五年ほどして死んだ。
 私の手元に残ったのは、手紙と、効力を失った子爵の名だけだ。
 紙が擦り切れて色褪せ、インクが変色して読めなくなってしまっても、私はそれを持ち続けていた。
 死の淵に立たされた今でさえ、こうして手に取り愛でるように読み返す。
 そう名乗ることなく亡くなったあの方。
 その名を頂いた若い思想家。
 そして最後にそうなった私。
 この手紙は、三人のハーゴメリのものであるのだから。






works