墓標
伯爵さまが治めるのは、山に囲まれた小さな土地でした。
領地は小さいながら豊かで、伯爵さまは王さまの覚えもめでたかったうえ、見目麗しい偉丈夫だったので、花嫁候補は数知れぬほどありました。その数だけ、伯爵さまに自分の娘をめあわそうという野心を抱く者もいたのです。
けれど、伯爵さまが花嫁にしたのは、学者の娘でした。しかも、もともと許婚がいたのを、伯爵さまが見初めてしまい、半ば無理やり自分の花嫁にしたのでした。
後ろ盾もなく、十分な持参金ももたない花嫁でしたが、伯爵さまは花嫁をとてもとても大切にしました。
花嫁もそのうちに優しい夫に心を許すようになり、結婚から数年がたった秋、はじめての子を身ごもりました。
けれど、お城から静養先の館に向かう最中、伯爵夫人を乗せた馬車が突然の嵐に遭いました。見つかったのは馬車の残骸と、変わり果てた姿の御者と侍女だけ。
伯爵さまはほうぼう手を尽くして探しました。
けれど、その甲斐なく、身重の伯爵夫人は行方知れずのまま。
無情にも月日が流れてゆきました。
国ざかいの人里離れた山深く。若い猟師が、一人で暮らしていました。
代々、細々と鹿やきつね、兎や鳥を狩り、小さな家を守って暮らす一族の、男は最後の一人なのでした。
男は、獲物を見極める目も、猟銃の腕も優れ、担いでくる肉も毛皮も一級品だったので、町に下りれば人々にこぞって歓迎されました。
けれど、男は言葉を知らぬかのように寡黙で、自分一人が食べてゆかれればそれでよいというふうに欲もないのでした。
その男が、五年前に突然、妻を娶りました。
氏素性の知れぬ美しい女で、手入れのいき届いた金髪に、大理石のような白い手をしていました。そのなりを見た町の人々は、男が女を攫ってきたのだとか、女は良家の令嬢だったのに駆け落ちしてきたのだとか、さまざまに噂しました。女は自分のことを全く話さないので、余計に憶測を呼びました。
女は、気を失って川の岸辺に流れ着いていたところを、猟師に拾われたのでした。
着ているものは上等の亜麻でしたが、それ以外に何も身につけていませんでした。靴も、頭巾も、装身具も。
猟師は女を家に連れ帰り、冷え切った体を温め、目が覚めるまで必死に看病しました。ふもとの町の医者を連れて来て診てもらうこともしました。
その甲斐あって女は目覚めましたが、いったい何をどうしたものか、自分の名前も、故郷も、家族の名も、何一つ覚えていませんでした。ただ、その言葉になまりはなく、所作は洗練されていたので、もともと身分ある身だということは知れました。
行きどころのない女に、猟師は、思い出すまでここにいればいいと言いました。
心を押しつぶしてしまいそうな不安を忘れるために、女は猟師の仕事を慣れないながら手伝い始めました。女は、猟や、けものをつぶすのはもちろん、パン焼きや、洗濯にすら慣れない様子でした。
猟師は、女に名前をつけました。白い野の花からとった名で、女はその名で呼ばれることにしだいに慣れていきました。
一年がたちましたが、女はやはり、何も思い出すことはありませんでした。
心細さや、言い知れぬ恐ろしさは、つねに忘れがたいものでした。
自分はどこにいたのだろうか。何か大きな罪を犯したのか、あるいは、みずから命を断とうとしたのか。
どんなに心の内を探っても、何も見つかりはしませんでした。
時折交わる町の人々は、女を猟師の妻だと疑いもしませんでした。猟師は、そう呼ばれて困った顔をする女に、気にするなと眉を寄せて言うだけでした。
ともに暮らし始めて二年が経つころ、女は、猟師が、優しく、ときに熱っぽく、苦しいくらいにいちずに自分を見つめているのに、知らないふりはできなくなっていました。
それに応えたいと思ったのは、命を助けられた恩を感じているからというだけではありませんでした。
やがて女は猟師の子を産みました。元気な女の子で、その名も猟師が付けました。
女の玉のようだった肌は日にやけ、手は固く荒れてしまいましたが、生成りの麻の服に身を包んでも、女はとても美しいのでした。
猟師の家は少しだけ大きくなり、獲物の数も増え、暮らしは豊かになりました。
それでも、家族は山奥でひっそりと暮らしました。
ある日、ふもとの町に、立派な馬に乗ったひとりの男がやってきました。
上等な羅紗の外套に身を包んだ男は、町の人々から猟師の小屋がどこか聞きだすと、馬を駆って山をかけ上りました。町で、誰かが、男の鞍の紋章を見て、隣の邦(くに)の伯爵さまだ、と呟きました。
男の馬が猟師の家に着いたとき、女は、娘とふたりで家の前の畑で種まきをしている最中でした。幼い娘は、体中をどろだらけにして、毬のようにころころと土の上をはねて遊んでいました。
女は、聞きなれぬ馬の蹄の音に顔をあげました。
視線の先にいるのは、見知らぬ男でした。
それなのに、男は、馬上から、ただひとすじに女を見下ろしていました。
男は馬を下りました。そのままに、女と娘のほうへ真っすぐ歩いてきます。
女はとっさに娘を抱き寄せ、身を引きました。
そのしぐさに、男は顔をこわばらせました。
「どなたです?」
男は答えませんでした。
「夫の、お知り合いの方?」
女が尋ねると、男はかすかに首を振りました。
「私を覚えていないか」
低い震える声で男が言いました。
女は、彼は自分にゆかりのある人なのだと悟りました。兄だろうか、それとも。
娘の小さな手が、ぎゅっと腕を握ります。女は娘のちいさな顔を見つめました。娘はただ黙って、心配そうに母を見上げています。
気がつけば、男の後ろに、夫が呆然と立っていました。
女の視線に気づいて、男も夫に目をやりました。
男の顔が一瞬だけ苦しげにゆがんだのに、女は気づきました。
「御夫君か」
男の問いは、沈黙を許さない強いものでした。
夫は顎を引き、一度だけ深くうなずきました。
「私の妻と娘です」
夫が言うと、男は、細く眇めた目で女と娘を見つめました。
その顔が、微笑んでいるようにも、泣いているようにも見え、女は胸が締め付けられるような気持ちになりました。
「御夫君と話がしたい」
男がそう言い、夫が頷いて、二人は粗末な家に入って行きました。女は立ち尽くしてそれを見送ることしかできませんでした。
日が傾きはじめ、娘が土遊びに飽いて女の膝で眠り始めた頃、夫がひとりで家を出てきました。
何の表情も浮かべていない夫が、女に歩み寄ってきました。そして、眠る娘を女の膝から抱き上げてしまいます。
「ふたりで話をしておいで」
夫はそう、押し殺すような声で言います。
女は黙って頷いて、住みなれた家の扉を開けました。
男は、暖炉の前に立っていました。女に広い背を向けたまま、話しはじめました。
「ぶじでいてくれて安心した。きっと、生きていると信じていた」
低く、甘い、懐かしい響きでした。
男はゆっくり振り返りました。その顔は、窓から漏れ来る夕日に赤く照らされ、鋭い影を浮べています。
「あなたは、どなたです? 私の……」
男の顔を見て、女は、自分が投げかけたのはずいぶん残酷な問いなのだと気づきました。彼は、唇に優しい笑みを浮かべました。
「知らないほうがいい」
静かな口調で言い切ると、ふと表情をやわらげ、男は尋ねます。
「一度だけ、抱きしめさせてくれないか。それでもう二度と、おまえの前に現れることはしないから」
その切なげな願いを、拒めるはずがありませんでした。
女が頷くや否や、強い腕が女の体をとらえました。骨も折れよといわんばかりの抱擁に、けれど、抗うことはできませんでした。男は女の頬を撫で、唇をなぞり、確かめるようにからだをたどりました。
女の耳に、熱い囁きが注がれました。
男は繰り返し、人の名を呼んでいました。
それは、かつての自分の名でした。
思い出したのではありませんでした。ただ、そうだと知ったのです。
この男が誰なのか、どれほど自分を愛しているのか。
そして、どれほどの思いで自分と遠ざかろうとしているのかということも。
「どうか、幸せに」
唐突に、男の体が離れました。
扉の向こうに蹄の音を聞きながら、女は床にくずおれました。
女は震える手を握りこみました。
男は、自分の名さえ教えてゆきませんでした。
女が失くした過去に苦しめられ、さいなまれずにすむように。
しばらくして、眠る娘を抱いて、夫が家に戻ってきました。
夫は、涙を止められぬ妻に寄り添い、ずっと、ずっと、その背を撫で続けました。
ただ一度きりの抱擁を、女は、二度と忘れまいと誓いました。
伯爵さまは、夕暮れに沈む山道に、白い花を見つけました。
つつましい、可憐な姿に惹かれ、馬を下りてその一輪を手折りました。
そして、再び馬にまたがって、山を下り、ふもとの町の教会を訪ねました。
伯爵さまは、ひとつの墓標の前に立っていました。
猟師が女を拾ったとき、すでに、お腹の子の命は失われていました。女は、目覚めたとき、自分が身ごもっていたことさえ知らず、また、猟師もあえて教えなかったという話でした。 猟師は、生を享ける前に死んだ子を哀れに思い、ひそかに小さな墓を作ったのです。
伯爵さまは、あの山小屋の前で、我が子とたわむれ、微笑む妻のまぼろしを見ました。
永遠に失われたはずの、けれど、五年もの間探し求め続けた、あたたかな夢を。
伯爵さまの頬を、一粒だけ涙が滑りました。
名も刻まれていない墓標に、伯爵さまは、白い野花を手向けました。
そして、二度と、その地を訪れることはありませんでした。