竜の都と最後の花嫁 竜に守られた都があった。 大河の中州に築かれた、小さくとも麗しい都であった。 気が遠くなるほどの長い間、人々はそこで平安に暮らしていた。 代々、王家には姫君しか生まれなかった。その姫が婿をめとり、婿が王となった。王妃は娘を産むとすぐに死に、生まれた王女が竜の祝福を受けた。 姫君は祝福の代償に、城の外に出ることができなかった。 生涯を城で過ごし、城で死ぬ定めだった。 屍となっても、城の地下の霊廟に眠らねばならなかった。 代々の王女は、おのれの運命を嘆いた。 これは呪いだと公言し、婿を拒もうとする者もいた。城から逃げ出そうとする者もあれば、自害をはかる者もいた。腹の中の我が子を石で打ち殺さんとした王妃もいた。狂ってしまった王女もあった。 それでも王はおのが娘や妻に婚姻を強い、出産を強いた。 祝福が呪いと呼ばれるにはいわれがあった。 まだ神話の時代、この国に、ひとりの美しい王女いた。 この大河の、ひいては国の守り主である竜の王が、この王女を見初めて花嫁に望んだのだった。王女の父である国王も、王妃も、その結婚を歓迎し、国中がお祭り騒ぎとなった。 しかし、王女には、心に決めた恋人があった。身分の低い騎士だった。 王女は竜の王に嫁ぐ前夜、騎士とともに城からの出奔を企てた。 二人は小船で運河を渡ろうと試みたが、それまでさざ波一つなかった運河が突如として増水し、小船は水に呑まれてしまった。騎士は溺れ死んだが、王女は助けられた。 その後、王女は定められていたとおりに竜の王に嫁いだ。 そして、祝言から十月十日の後、娘を産んだその床で死んだ。 国王には王女の他に子どもがなかったため、この娘を引き取って育て、跡継ぎとした。 しかし、その王女も、結婚して娘を産むと、すぐに死んだ。 それが竜の王の意趣返しだと考えた王は、王女に婿をとらせて王位を継がせることを決め、数百年の時がたち、王国は繁栄を極めた。 しかし、その滅亡のときが迫っていた。 都は東国からの侵略にさらされていた。 都が竜の守護を得ていると言われる所以は、大河のもたらす豊穣だけでなく、その流れが敵方を阻んでいたことだった。しかし、東国の軍は堅牢な船団と水上戦の巧みさでもってたやすく国土を侵略した。長年の安寧にまどろんでいた王国は、あちこちがなすすべなく敵の手に落ち、都がそうなるのもまた時間の問題だった。 既に、王は城から逃れ出ていた。 最後の王女はまだ十六だった。 母の顔も知らず、城から出たこともなかった。 その姫君の許婚である貴族もまた他の王族と同様に城を離れていた。 姫君は、騎士と数人の召使とともに、城に取り残されていた。 いまだに都にあるのは、家を捨てられぬ老人や、足腰の弱い女子供ばかりだった。 姫君は、たとえ城を出て失う命でなくとも、運命を都と共にすることを望んでいた。 姫君は召使たちに身の回りのものを分け与え、逃げるよう促した。彼らは頑として受け取らず、城に残ると言い張った。 騎士も、最後まで姫君に寄り添おうとしていた。 彼は、幼い姫君の騎士として叙任されたときから、片時も姫君の側を離れなかった。 周囲の誰しもが気づいていたことではあったが、騎士は姫君を心から想っていた。姫君もまた、同じ気持ちで彼を慕っていた。 しかし、互いにそれを明かすことも、互いに触れることも決してなかった。 最期の時を、姫君は王妃の寝室で迎えようと決めていた。 代々の王女が生まれる場所であり、王妃となったあと、ほんのつかの間を過ごす場所でもあった。 王女のための産屋であり、王妃のための死に場であった。 姫君は夫を持たず、子を産むこともなかった。 せめてその場所で竜と王女たちに祈りを捧げ、穏やかに眠りたかった。 騎士はその静寂を守り、召使たちは控えの間に佇んでいた。 姫君は祈りを終え、毒を飲むために立ち上がった。 そのとき、例えようのない轟音が城中に響き渡った。 砲撃がはじまったものと思われた。 しかし、城を襲ったのは、城壁を崩さんとする高い波だった。 大河が突如として氾濫したのだった。 都じゅうの河川、ため池、溝、濠、水溜り、およそ水という水が何倍にも膨れ上がり、街を攫った。敵方の兵士も、船ごと波に襲われて押し流された。 露台に出た姫君と騎士は、沈みゆく都を目の当たりにした。 幼い頃から絵画のように眺めることしかできなかった都が、この場所のために生涯を捧げるのだと誇りに思っていた美しい都が、莫大な嵩の水のなかにあっけなく没していった。 姫君は目を細め、小さく呟いた。 「竜が滅ぼすのだわ」 騎士はその背後に立ち、姫君の小さな背中を見つめていた。 波は濠を溢れさせ、城壁を越え、城を水浸しにしていった。 とうとう、高波が視界を覆いつくすまでに迫った。 姫君は振り返り、縋るように騎士を見つめた。 騎士が姫君を抱き寄せたそのとき、二人はもろともに水に呑まれた。 姫君は水のなか、騎士の肩越しに、一匹の大きな竜が泳ぐのを見た。 竜は、恋した王女が自分を嫌って逃げた報いに、王家に呪いをかけていった。 人々はそう信じていたけれど、本当は違ったのかもしれないと、姫君は思った。 それも一瞬のことで、姫君は冷たい水を呑みこんで、眠りの底に沈んでいった。 流された人々は、まるで引き寄せられるかのように、街外れの丘に次々と漂着した。 かつては城を見下ろせたその場所は、今は小さな島のようだった。 一組の男女が、抱き合ったまま、そこに流れ着いた。 先に目覚めたのは男のほうだった。 騎士であった男は、腕の中の女の命が失われていないことに気がついた。 男は女を優しく揺り起こし、ふたたびかたく抱きしめた。 かつて姫君であった女は、目覚め、生まれて初めてその足で土を踏んだ。 二人は手を取り合って街の復興に力を尽くしたが、王冠を頂くことはなかった。 生涯を市井の人として暮らし、たくさんの子に恵まれた。 女はおのれの子どもたちに寝物語に話して聞かせた。 古都は湖に沈み、竜とともに、いつ覚めるとも知れぬ眠りについたのだと――。 |