五四四三グラムの右肩




「相川さん。相川さん」
 呼ぶ声がする。
「ねえ、もう起きたほうがいいんじゃないの」
 うっさい。あたしはまだ寝ていたいのよ。
 そう思ってはじめて、あたしは自分が寝ていたことに気がついた。あたしは、机に豪快に突っ伏していたのだ。
 がばちょと身体を起こすと、目の前には同じクラスの竹田君が立っていた。竹田君は部活が終わったばかりらしく、制服を少し崩して着て、首にタオルをかけている。
「あ。起きた。よかった」
 彼は目を丸くしてあたしを見下ろしている。
 窓の外はすっかり暗くなっていた。時計の針は七時少し前を指している。下校時刻ギリギリだ。
 何でもっと早く起こしてくれなかったのよ。こんな時間になるまでほっとくなんて。
 恥ずかしいやら情けないやらで、あたしは口を噤んでいた。
 竹田君と話したのははじめてだ。彼は話しかけづらいグループの中にいて、かなり無口なほうらしくて、同じクラスになって半年以上経つ今でも、あたしは彼が喋っているところをあまり見たことがない。部活も何部に入っているのか知らない。彼に関する特別な記憶と言えば、席替えで彼の後ろになって、黒板が全く見えなくなって困ったことくらいだった。つまり、彼は背が高いのだ。
 竹田君があたしを起こしてくれたのは、ちょっと意外だった。放課後まで教室で爆睡してる女なんか、「間抜けなやつ」とか言いながら放置してさっさと帰りそうな雰囲気の持ち主だからだ(我ながらひどい言い草だけれど)。
 あたしはそそくさと帰る準備をし始めた。鞄の中にノートと教科書を突っ込む。竹田君は、ブラインドを上げたり黒板を消したりしている。見かけより几帳面なほうらしい(我ながらひどい言い草だけれど)。
「あたしやっとくから、帰りなよ」
 あたしは言った。竹田君はとっくに帰りの準備なんか済ませている。
「相川さんこそ早くしなよ。七時までに出ないと、生活指導のセンセに捕まるよ」
 それだけ言って、教室の後ろのドアの鍵まで掛けている。それ以上会話が弾まない。何だかとても圧迫感を感じる。
 あたしは電気を消した。竹田君が教室から出る。鍵を掛けて、あたしは職員室に向かう。非常口の緑色のライトに照らされる床に、あたしの影と、のっぽの影が映り込む。竹田君の影だ。
「一人で行くからいいよ」
 そう言ったけれど、竹田君はそっけなくこう答えた。
「いいじゃん。べつに」
 あたしが鍵を返す間、竹田君は職員室の前で待っていてくれた。並んで校舎から出た。
 外は真暗だった。ほとんどの生徒が下校を終えたらしく、生徒はあたしたちの他に見当たらなかった。
 校門の前には男の先生が二人立っている。あたしたちは少し遅かったみたいだ。
「先生いるよ」
 あたしは言った。
「うん」
 彼は答えた。
「しかもイノキとタマちゃんだよ」
 立っているのは、顎が妙にしゃくれてるから「イノキ」と呼ばれている体育の先生だ。気のいい先生だけど怒ったら強い。もう一人はタマちゃんこと英語の玉城先生。例のアゴヒゲアザラシもタマちゃんと呼ばれているが、自分のほうがオリジナルだと言ってはばからない。この先生も怒ったら恐い。
「どうする?」
 竹田君があたしに聞いた。
 どうするもこうするもない。イノキとタマちゃんに捕まってちょっと怒られるしかない。
「走ろうぜ」  竹田君があたしを見下ろして、口唇のはしっこを吊り上げて笑った。ニヒルな笑い方だ。
「走るって?」
「だから、あいつらに捕まる前にダッシュで逃げんの」
「無理でしょ。イノキ体育教師だもん」
「無理じゃないでしょ。オレ陸上部だもん」
 あたしはどうすんのよ、と言いたかったけれど、竹田君が目をキラキラさせていたのであたしは何も言えなかった。
「321、でスタートね」
 彼はスタートの準備をしている。あたしもそれにならう。
「よーいどん!」
 あたしは反射的に走り始めてしまった。竹田君は陸上部というわりにはあんまり早くないような気がしたが、さすが男子といったところだ。
 イノキとタマちゃんが何か言っている。あたしたちを追いかけてくる。あたしは竹田君について、全速力で走った。でも追いつけない。
 けっこう走って、竹田君は止まった。あたしは少し遅れて止まる。
「スタート、321じゃないじゃん!」
 あたしが浅く息を吐きつつこう言ったら、竹田君はあっ、と言ってはにかんだ。
「間違えた」
 竹田君は、笑うと目が優しくなる。
「でも、相川さん早かったよね」
「竹田君は、そんなに早くなかったよね」
「オレ砲丸投げの選手なんだよね」
「……なにそれ」
 絶句したあたしをそのままにして、竹田君は駅の方向に歩きはじめた。
「いい目覚ましにはなったよね。走ったの」
 彼の台詞が意地悪く聞こえるのは気のせいだろうか。いや、きっと気のせいではない。
「オレびっくりしたもん。教室で寝てるの相川さんって気づいて」
 竹田君の吐く息が、白く空気に残る。
 耳や鼻はすごく冷たいんだけど、あたしの身体の芯はぽかぽかしている。
「だってさ、授業中一回も居眠りなんかしたことないって感じじゃん」
 それは大いなる勘違いだ。あたしは、先生ばかりでなく隣の席の人にさえ見破られない居眠りの仕方を日夜研究し続けているのだ。絶対に他人には教えてあげないが。
「あたしこそ、竹田君がこんな人だって思ってなかった」
「こんな人って?」
 ポケットに手を突っ込んだまま、竹田君はあたしの顔をのぞきこむ。なんだか楽しそうだ。
「危ない橋は渡らなさそうな人だと思ってた。教室出るまで、待っててくれたりするって思ってなかった。あと、先生撒いたりとか」
「結構優しいでしょ」
「自分で言うところが何かいやだ」
「それに頼もしいでしょ」
 こいつ、全然聞いてない。
 のっぽの竹田君は、あたしの二歩前を悠々と歩く。後ろから小突いてやりたいという衝動を必死におさえ、あたしはリーチの長い彼に追いつくために早足になる。
 砲丸投げの選手にはとても見えない薄っぺらい肩が、悔しいけれど、ちょっと立派に見えた。






works






5443グラム……男子高校生用の砲丸の重さ
この作品は文芸部の部誌に掲載したものを修正したものです。