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拍手お礼SS 深淵 「白い紡ぎ手」 「小さいな」 グラニスは布とレースでできた靴をつまみ上げ、手のうえに載せた。 それは、一足がグラニスのてのひらに乗ってしまうほどの小ささだった。二枚の白い絹が丸く縫い合わされ、ふちは同じ色のレースで飾られている。足首のところでリボンを結んで、赤子の足に履かせるという仕組みになっているらしい。 それにしても、こんなに小さくて大丈夫なのだろうか。 「これでいいのか。小さすぎて入らないのではないか」 北の離宮の、明るく日の差す居室だった。 グラニスの向かいで、女が二人、椅子を並べて裁縫に励んでいる。 「それでも大きいくらいでございます」 答えるのは、斜向かいに腰掛けているブリシカだった。 グラニスがひっきりなしに声をかけては作業を止めさせるのに、律儀に答えてはまた手を動かす。彼女が縫っているのは、洗礼式のためのおくるみだった。 真向かいでは、シーネイアがその遣り取りをはにかみながら見つめている。 彼女のお腹には、グラニスの子がいる。 もともと華奢な体つきをしていた女なので、出産まであと三月という今になって、ようやく膨らみが目立ち始めた。 「ブリシカさんに、古い型紙を使わせていただいています。陛下がお生まれになる前に、王太后さまとお作りになったものだそうです」 そう言って、卓の上の紙の束を指差す。 この年季の入った黄ばんだ紙と比べれば、軍事地図のほうがよほどやさしく読み解けるように見えた。 シーネイアは嬉しそうにその型紙を見つめ、しばらくしてまた縫い取りをはじめた。靴と揃いの帽子にレースをつけているのだ。 ブリシカが手を止め、口を開いた。 「もう三十年近く昔になりますか、グラニスさまがお生まれになる前、こうしてアトリーさまと頭を突きあわせて、産着やら何やら、山のように縫ったものでした」 彼女は懐かしげに手元を見つめる。亡き主を語るとき、ブリシカはまるで少女に戻ったかのような顔をする。懐古してはまたすぐに、姑の顔をしてグラニスを叱るのだが。 「今は王宮のどこに眠っているものやら。一枚でも取り寄せて、お生まれになる赤さまに着せて差し上げたいもの」 グラニスは内心首を捻った。母が裁縫上手だったという話は、生まれてこの方聞いたことがなかったのだ。 「わたしも、ぜひ、拝見したいです」 何も知らないシーネイアは微笑んで頷いている。 シーネイアがはじめて手仕事の様子を見せてくれたのは、北の離宮に移ってきてからしばらく経ったあとだった。 グラニスは、十日に一度の終日休暇の折に、ほんの数刻ここを訪れていた。 シーネイアはいつでもグラニスを待っていて、玄関で彼を迎えてくれた。そして明るく暖かな離宮に招き入れ、椅子に掛けさせ、茶を入れてくれる。彼女は王宮にいたころのように、グラニスに対していつも聞き役に徹した。 それでも、少しずつシーネイアの言葉数が増えてきたころだった。 シーネイアはグラニスに、赤子の服を選んでほしいと言った。 何枚もの型紙を見せられ、どれがいいかと意見を求められた。しかし、グラニスにはさっぱり出来上がりが想像ができず、答えに窮してしまった。 グラニスにとって衣服とは、目録から選ぶもの、あるいは、衣装屋と侍従と(何よりも予算と)の協議に任せて決めるものだった。 縫製は、彼の立ち入れない領域だった。 そんなグラニスに、シーネイアは懇切丁寧に、身振り手振りでそれぞれの違いを説明してくれた。そのあまりに楽しげな様子を見て、グラニスはほとんど意味は分からなかったけれど、彼女が裁縫をしているところを見たくなったのだ。シーネイアははじめ恥ずかしがったけれども、すぐに笑って許してくれた。 彼女の白い手が針を摘まみ、鋏を握り、布地を繰るさまを見たときの、あの感動は忘れがたい。目利きのブリシカさえも、シーネイアの仕事の精密さと美しさを手放しで褒めた。それだけでなくて、裁縫をしているシーネイアは本当に幸せそうだった。 グラニスは、彼女からいっときでも針箱を取り上げていたことを後悔した。 彼女の手が、グラニスの子のための衣装を作る。 靴、帽子。靴下におくるみ、前掛け。 美しく小さい、真っ白な宝物たち。 グラニスにはそれらが、彼女の優しい気持ちが紡ぐ、未来のひとつひとつに見える。はじめて彼は、彼が生まれるのを待ちながら産着を縫った母と、それを見ていただろう父の心に、思いをはせられるようになった。そして、それを守らねばならないという思いを新たにする。 「……探させてみようか」 彼は気が付いたらそう口にしていた。 ブリシカはそれを聞いて、思い出したようにうろたえた。シーネイアは可愛らしく小首を傾げている。 そこに小さな赤ん坊が加わる日を思って、グラニスは目を細めて天窓を仰いだ。 差し込む暖かな陽光に、幸福の予感を覚えたのだった。 |