深淵 The gulf
番外編 小夜風










 アトラインはただ泣いていた。
 今まで何度、こうやって人知れず咽び泣いていたのか。
 彼女は、毎朝初めに顔を合わせるブリシカにすら、何も気取られぬように振舞っていた。たとえ気づいたとしても、誰にもどうすることも出来ないことだったのだ。
 夜会服のまま、アトラインは一晩中ブリシカとともに寝室の床にうずくまっていた。明け告げ鳥の鳴き始めるころ、先に立ち上がったのは彼女のほうだった。
「みなが目を覚ます前に、着替えていなくてはね」
 アトラインは真っ赤な目をしながらそう言った。しかし、すぐにふらふらと椅子に座り込んでしまうことになった。ブリシカは彼女を寝台まで連れて行き、柔らかい褥のうえに横たわらせた。
「少しでもお休みになったほうがいいと思います」
「だめよ、朝食は陛下とご一緒しなくてはいけないのだもの」
 ブリシカは繊細な意匠のドレスに慎重に手をいれ、コルセットの紐を緩め、靴を脱がせた。それでも彼女の体は強張ったままだった。
 彼女はされるがままになりながら、目を閉じて息を吐いた。
「一日が、もう少し長ければいいのにね」
 アトラインは、疲れたとか気分が悪いとか言って、自らの予定を変えることなど一度たりともしなかった。
 自分は王宮の中ではブリシカよりも若輩なのだから、侍従や女官の言うことを聞いて当たり前だと話していた。我儘を言うなどとんでもないと。彼女は、王宮で自分が何をしていればいいのかわからなかったのだ。だから、ああしなければいけないこうしなければいけないと言い募る周囲の言葉に従っていたのだった。
「今日くらい、こちらで召し上がってもいいではありませんか」
 ブリシカが怒りを抑え、やっと口に出来たのはそれだけだった。
 心は国王に対する憤りに燃えていた。花のようにか弱いブリシカのあるじを踏みにじり、手に入れた男への、やるかたない感情だった。
「私、そんなにひどい顔をしているの?」
 アトラインがおかしげに問うた。
 確かに、化粧が崩れ、瞼も頬もむくんだ、かなりのありさまではあった。
「いいえ、アトリーさま」
 ブリシカは、疲れた背筋をぴんと伸ばした。
「いつもどおりにお美しいです」
 ブリシカがそう言うと、アトラインは唇を緩めて微笑んだ。
 女官長には、ブリシカが、王妃は自室で朝食をとったほうがいいのではないかと進言した。女官長は眉一つ動かさずに聞き入れてくれた。今は亡き先の王妃殿下には、こんなことはしょっちゅうであったという。
 アトラインは、寝台の上で寝巻姿のまま、ほんの少しのパン粥を口にした。まるで病人のそれのような食事風景だったが、ブリシカの目には、アトラインがとても満足しているように見えた。もともと、彼女は美食にこだわらない人物だったのだ。野菜と魚が何より好きで、肉や酒をふんだんに使う宮廷料理を苦手としていた。
 静けさは突然に破られた。
 隠し扉が無遠慮に開き、国王が姿を現したのだった。
 彼は大きな体躯の偉丈夫だった。明るい栗色の髪と瞳は、代々の国王陛下と同じものだった。着替えの途中だったのか、上着もタイもつけていなかった。
 彼は慌てふためく女官たちの間をすり抜け、大股で寝台に歩み寄った。
 アトラインは、手にした匙もそのままに、泣きそうな表情で彼を待っていた。
 国王は、朝食の皿が並んでいるのにも構わず、アトラインの両脇に手を突いた。その様子が大きな犬が飼い主に飛びつくのにも似ていて、ブリシカはあっけにとられた。
「どうした。どこが悪いのだ。頭か、腹か。典医は呼んだか?」
 国王に矢継ぎ早に問われ、アトラインは困り果てたように口を開いた。
「陛下にご心配頂くほどのことは」
「何を言う。今日は一日寝ているがいい」
 それが、ブリシカが最初に聞いた夫妻の会話だった。
 傍からは、夫が新妻を労わっているように見えただろう。
 ブリシカでさえ、昨晩アトラインの語った国王の所業を疑わずにはおれないほどだった。一年前までひっきりなしに噂されていた、高慢で我儘放題の以前の国王の姿までも虚構だったのではないかと考えてしまった。
 国王は名残惜しげに寝室を出て行った。それからすぐ、ブリシカは女官長に引っ張られて控えの間まで連れて行かれた。待っていたのは国王その人だった。女官長は、縮こまるブリシカを指し示して、この者が一晩じゅう王妃についていたと説明した。
「世話をかけた」
 いくら王妃の気に入りとはいえ、見習いも同然の女官に国王が声をかけるなど、本来ならばありえないことだった。
 国王はブリシカに、アトラインについて尋ねてきた。ブリシカは、昨晩の様子に始まり、二人のときは何を話すのかとか、間食には何を食べるのかとかといったこまごまとしたことまで、根掘り葉掘りを問いただされた。
 ブリシカは身構えていた。
 自分の非礼はアトラインの名折れとなる。
 何より、自分が彼女の秘密を漏らせば、それが彼女の不利になるのだ。付け入る隙を与えてしまったら、国王は手練手管でアトラインを追い詰めてゆくのかもしれなかった。
 ブリシカは慎重に、言葉を選んで国王に応答した。
 気難しいが有能な政治家であり、度を越した女誑し。国王に対する評は間違っていないように思えた。もの知らずのアトラインを自分のものにするなど、彼にとっては赤子の手をひねるよりたやすいことだったのだろう。
 けれど、今ブリシカの目の前にいる男は、どうしてか、初恋を知ったばかりの少年を思わせた。妻が朝食を欠席すれば血相を変えて部屋に飛び込んでみたり、不安そうに下っ端の女官に妻の様子を聞きたがってみたり。
 さんざんブリシカを尋問した後、彼が呟いた。
「あれは、おまえの前で泣くのか」
 ブリシカは思わず顔を上げていた。
「おまえの前では、声を忍びはしないのか」
 国王はふと目を伏せ、すねた子供のように一言零した。
「あれは、私を詰りもしない――」
 国王は去っていった。
 その短い邂逅で、ブリシカは彼の心を知った。










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