深淵 The gulf 番外編 薔薇の娘 二頭の馬が街道を行く。 石畳は細く長く続いている。秋の日差しに草が照る。 ロレンツは、グラニスの背中をぼんやりと目で追う。 馬を並べて走ったことは数え切れないほどあった。だが、いつも前を進むのは自分だった。 しかし、今日に限っては違っていた。 この遠出の誘いを、ロレンツははじめ丁重に、しかし断固として辞退した。なぜならば、国王の終日休暇の遠乗りは、離宮への訪問を意味していたからだ。グラニスがシーネイアをそこに住まわせるようになってからは三年、二人の間に子が生まれてからは二年半が経っていた。 その間、ロレンツはグラニスの前で一度もシーネイアの名を口にしなかったし、もし彼女たちに干渉しようとしてもグラニスがそれを許さなかっただろう。ウォルナードだけがグラニスに請われて時折離宮を訪ねていたようだが、自分はそれを知っても何か問いただすようなこともしなかった。 そしてロレンツは、それが永劫に続くものと思っていたのである。 『私にはあれに合わせる顔がありません。御子にお会いする資格もございません』 鬱屈した声でそう告げたロレンツを、グラニスは軽く鼻で笑った。 『傲慢も大概にしろ。決めるのはお前ではない』 内心でうろたえるロレンツに日時と時刻を指示するだけして、グラニスはさっさと執務に戻っていってしまった。そしてロレンツはそのまま今朝を迎えたのである。 空は昨晩から晴れていた。 強い日差しに目を細めているうち、小さな邸宅が見えてきた。 その白い建物は、まるで時を止めているかのように美しいままそこにあった。ロレンツは眉を寄せて顔を伏せた。諦め悪いと我ながら思うのだが、まだためらいがあった。 敷地に入ってグラニスが馬を降りると、ロレンツもそれに続いた。 出てきた従者に馬を任せて、二人は徒歩で邸宅に近づいた。 そのとき、玄関の扉の隙間から、小さな何かが飛び出してくるのが見えた。子犬のようなよちよち歩きで、しかし迷いのない速さでそれはこちらに向かってきた。 ロレンツは思わず足を止めていた。 「おとうさま!」 甲高い声がグラニスを呼んだ。グラニスも腰を屈め両手を広げて待っている。 グラニスの膝ほどの背丈。白に見える金髪が、結われもしないで風に揺れている。丸い瞳は目の覚めるような鮮やかな青色。 間違いなくグラニスの血を継いだ、彼の娘だった。 幼女はまるで怖れもなしにグラニスの胸の中に飛び込んだ。ロレンツにはそれが大きな鞠が弾んでいるように見えた。 グラニスは幼女を抱き上げて立ち上がった。唇にとろけるような笑みを浮かべている。 「元気にしていたか」 「すごく!」 「おかあさまに叱られなかったか?」 「叱られません!」 「わがままを言って泣かなかったか?」 「泣きません!」 「いい子にしていたのだな?」 これ以上ないくらい甘やかな声で、グラニスは幼い娘に問うた。 娘は大きく頷いた。 「すごく!」 グラニスは目を細め、大儀そうに娘を抱えなおした。 「では、いい子だったアンナにご褒美をやろう」 そう言って、後ろに立つロレンツに目をやった。体もこちらに向けたので、幼女もロレンツを見ることになる。 娘はじっとロレンツを見つめてくる。 ロレンツはその視線にたじろいだ。娘の目があまりに真っ直ぐで、無垢だったからだ。 幼女はしばらく、ロレンツを異物を見るかのように凝視した。 そして、ぱっと目を輝かせ、その珊瑚色の唇を開いた。 「おじいさま!」 幼女は滑り降りるようにグラニスの腕の中から離れ、ロレンツに近づいた。 「アンナのおじいさまでしょ!」 幼女は興奮した様子で、舌足らずに繰り返しながらロレンツの回りをぐるぐる駆けた。ロレンツを見上げながらきゃあきゃあと声を上げていたが、すぐに足をもつれさせて地面に倒れかけた。ロレンツは思わず跪き、腕で娘の前半身を支えていた。 子供の体は小さく、繊細で頼りなく見えた。しかし、その重みは確かで、過ぎるほどだった。 娘は驚いた様子もなく体を起こし、顔をあげた。 小さな両手をいっぱいにロレンツに伸ばしてくる。 頭上からグラニスの声が降ってきた。 「アンナは背の高い人間が好きなんだ」 ロレンツは視線を迷わせた。 ふと、玄関のほうに女が一人立ち尽くしているのに気がついた。 細い体をポーチの柱に寄りかけるようにしてこちらを見つめている。 シーネイアだった。 「私を連れてくることを、あれにお伝えにならなかったのですか」 尋ねると、グラニスは苦笑して答えた。 「教えれば、おまえと同じことを言うに決まっている」 「なぜ、今日……」 「アンナが、ウォルナードを自分の祖父だと勘違いしていた。だから、本当の爺をつれて来てやると約束した」 ロレンツは腕の中の幼女を見下ろした。ロレンツに抱けと目で訴えている。 一目見ただけで、この娘が何不自由なく、愛されて育てられているということがわかる。誰かに拒絶されることなど考えてもいない、そんなことがありうるとも知らない娘。 初めて会ったばかりの不甲斐ない男を、信じきって疑わない娘。 ロレンツは、自分の子供すらまともに抱いたことはなかった。グラニスやカメリアの子守はすすんでしていたが、それもはるか昔のことだ。 ロレンツはおそるおそる幼女の体に手を伸ばし、そっと抱き上げた。ふわりとひだまりの香りがした。 幼女は腕をロレンツの首に巻きつけて、上手にしがみついている。 「ほんとにアンナのおじいさま?」 娘が心配そうに聞いてくる。 「そうです。初めてお目にかかります」 孫ではあるが、主君の娘である。 年寄りの畏まった物言いには慣れているのか、娘は気にした様子もなかった。 「おひげがないのね。しわしわがないのね」 不思議そうな表情に、ロレンツも困惑した。娘は遠慮なしにロレンツの顔をまじまじと見下ろしてきた。いたたまれずに目をそらす。 「あっ」 ロレンツの腕のなかで、娘が突然腕を振ってもがいた。下ろせと言っているらしいのがわかり、ロレンツは慎重に腰を屈めた。娘は猫の器用さで着地すると、今度はさっき駆けてきた方向に向かって走り出した。 ロレンツは、腕の中に残る温もりにしばしあっけにとられた。 自分がこんなにもはやばやと飽きられてしまったのが軽い衝撃でもあった。 玄関の前に、娘の母が心配そうに立っていた。 シーネイアは、最後に顔を合わせたとき、すなわち四年前と全く変わらない様子だった。子を産んでだいぶ経つというのに、十六のころと変わらずにたおやかで少女めいた面立ちをしている。 ふと、ある思いが胸に去来し、ロレンツは俯いてしまった。 十五年前、初めてシーネイアを目にしたときのことだ。 ブレンデン邸でのことだった。馬車から降りたロレンツは、見慣れぬ幼女が納屋の影に隠れてこちらをうかがっているのに気がついた。使用人の子などではないことはわかっていた。幼いながらに母によく似た、愛らしい子供だった。 ロレンツは幼女をにらみつけ、すぐに視線をはずした。それきり、どんなに間近にあっても彼女と目を合わせたことなど一度たりとてなかった。 もしもあのとき駆け寄って声をかけてやっていたら、自分は小さなわが娘を抱き上げてやれたのだろうか。たとえそうだと知ることはなくとも、主君に妾に差し出しなどしなかっただろう。 二十年前にナターシャが自ら身を引いたことに気づいていたら、彼女の裏切りを疑わなかったなら、自分は何もかも捨てて彼女と一緒になっていて、娘が生まれるところに立ち会っていられたのだろうか。 はじめて愛した女と、彼女の産んでくれた娘とともに、違う人間として生きていたのだろうか。 シーネイアはもうすぐ二十になる。 ロレンツと離別したころの、ナターシャと同じ年齢だった。 戸惑いを隠せないらしい母親に、幼女は身振り手振りで何か訴えている。 ロレンツを指差して、次に母親の顔を見上げ、にこにこと笑っている。 「……何と言っているのでしょうか」 ロレンツは訝しげに尋ねた。 「ああ、たぶん……」 グラニスは思案げに笑み、シーネイアとアンナロッサのいるほうへ歩き始めた。 「陛下、何ですか」 「自分で尋ねてみるがいい」 と、グラニスは少年のように笑んでロレンツを横目で見た。 アンナロッサは懸命に母に喋りかけている。シーネイアは腰を屈めて、娘を優しく見下ろしている。 彼女がふと顔を上げて、グラニスとロレンツを見つめ、微かな笑みを浮かべた。 ロレンツはそこから動くことができなかった。 じれたアンナロッサが戻ってくるまで、唇を噛み締めたまま動けなかった。 「おじいさま」 幼女は首をいっぱいに曲げてロレンツを見上げていた。 ロレンツはその場に跪き、幼女と視線を合わせてみた。 「アンナ、しってるのよ。おじいさまは、おかあさまのおとうさまでしょ」 幼女はたどたどしく話し始めた。 「おじいさまのおめめがね、おかあさまとおんなじいろなの。おぐしも」 アンナロッサは得意げに胸をそらせる。 ロレンツは頷こうとして、できなかった。奥歯を噛み締め、顔を伏した。 「だってね、アンナとおとうさまもおんなじいろなのよ。おとうさまはアンナのおとうさまだもん」 小さなふくよかな手が、ロレンツの耳に触れた。くすぐったさに顔を上げると、満開の花のような笑顔がそこにあった。髪と目の色は、確かにグラニスのものだ。けれど、このあどけない表情、目鼻だちは、シーネイアのものだ。シーネイアが、ナターシャから継いだものだ。 ロレンツは今度は俯かなかった。 すまないと、掠れた声で告げた。 小さな孫娘に。美しく成長した娘に。 そして、かつて愛した、ここにはいない女に。 ロレンツは、アンナロッサの肩越しに、シーネイアに向かって笑みかけた。 そして、孫娘を抱きあげて、歩き出した。 |