深淵 The gulf 番外編 すべてが、あなたの ジルアンは、巨大で豪奢な寝台のなかにいた。 赤い錦の天蓋、緋色の絹のとばりが、彼の病み、衰えた、大きな体躯を隠していた。幾つも積み上げた柔らかなクッションに埋もれ、彼はただただまどろみ、夢を貪る。 生まれてからこれまで、絶えず人に囲まれ、帝王らしく振舞い続けてきた彼にとって、これははじめての怠惰だった。そして、はじめての孤独だった。 彼はふと、天蓋の外を見遣った。高熱がひかず、首を動かすのにも難儀する。視界は霞のかかったようにぼやけていた。 部屋は薄暗かった。 寝台のそばの長椅子に、女が一人座っている。 彼女は――彼の妻は、長椅子の背に肩を預け、目を閉じていた。 彼女は、ゆったりとした部屋着姿だった。いつもは美しく結い上げている白金色の髪を肩におろし、リボンで束ねている。彼の目は薄明かりのもとでうまくききはしないが、女の顔も姿も、真昼の陽の下にいるように思い描くことができる。 ふと、彼女が身じろぎをした。そっと目を開き、少女のようなしぐさで目をこする。顔を上げて、寝台の中に視線を移した。 彼女は、ジルアンが目を覚ましていることに気づいた。 女の優しい口元が緩んだ。彼女は、華奢な上半身を寝台に傾けてくる。 「お目覚めでいらしたの?」 白い、小さな顔がジルアンに近づく。 「……ああ」 ジルアンは、浅い息の下から返事をした。ひどく喉が渇いていた。舌が口蓋に張り付きそうで不快だった。 「ご気分はいかがです?」 「悪くない」 そう言ってやると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。気分が悪くないのは、目を覚ましたら彼女が隣にいてくれたからだ。 ジルアンが黙っていると、彼女は細い手を彼のてのひらに重ねてくる。ひんやりと冷たい手は、熱を持った肌に心地よい。 「お熱がだいぶ下がりましたのね。お水は?」 「くれ」 手が離れてゆき、ジルアンは一抹の不安を覚えた。このままもう二度とあの手を握ることができないような気がしたのだった。 そういう怖れは、常に彼の心に根を下ろしていたのだが、自覚されることは稀だった。からだが弱ると、心も弱るのかもしれない。 もう自分は長くはないだろうと、ジルアンは自身で気がついていた。齢は五十、それまで病らしい病ひとつ患ったことがなかった。だからこそ命の終わりがあっけないのだろうと、彼はそう思っていた。 妻は、彼が高熱に倒れた日から、ずっと側についてくれていた。彼女自身もそう丈夫ではないくせに、夜通し無理をしながら彼の世話を焼いているのだ。 彼女が、静かに戻ってきた。盆に水差しと入れ物を載せている。 「白湯ですけれど」 彼女が、そっと、吸い口のついた水器を差し出す。この数日で、このもの珍しい形にも慣れた。寝ながら水を飲むには何より便利だった。 今まで彼は、病人や老人といった、弱い者の心内になど考えがいたらなかった。弱ったことがなかったからだ。そのことが自分の杓子定規なまつりごとのやり方にも現れていると気づいたのは、妻の働きがあってこそだった。都市を整えることに力と金を傾け、人に目が向かなかった彼に対して、妻は市井に出て民と交わることを好んだ。彼女は、自分の労わりや慈しみといった感情を民に惜しげもなく注いだ。それがジルアンにはねたましく、同時に誇らしかった。 彼女のほっそりとした手が、ジルアンの口元に吸い口を近づけ、傾ける。 「むせないように、お気をつけて」 彼は唇をひらき、口腔に水を受け入れた。喉の奥までが潤った。何度かに分けて飲み込み、彼は目を閉じた。 「ありがとう」 彼が言うと、妻は頷いて水器を下げた。 久しぶりにものを飲み込んだためか。こめかみから喉のあたりまでが軋むように痛んだ。額に手の甲を当て、うまく働かない頭でものを考えようとしてみる。 「夜なのか」 「まだ、宵の口です」 彼女の低く滑らかな声は、聞いていて心地よかった。 「倒れてから、何日になる」 「三日たちます」 「執務はどうなっている?」 「グラニスがよくやってくれています」 息子の顔を思い出し、ジルアンは目を閉じた。 息子は十七になったばかりだった。息子は王太子であり、その父であるジルアンは国王だった。忘れたことはなかったし、逃れることのできる勤めだとも思わない。そう生まれ付いて、そのまま死ぬのが、この血統に生まれたものの宿命だ。 けれど、彼には、自分が玉座に戻れるものとは思えなかった。 「まだ、あれには、荷が重かろう……」 掠れた声で言うと、妻ははっとしたようだった。きっと、唇を噛んで、目を潤ませているのだろう。彼女が自分によく見せる表情のひとつだった。 「そうです。ですから、早く、ご快癒いただかなくては」 妻が自分にこのような言葉をかけるのは、実に珍しいことだった。思い返せば、彼女は口数じたい少なくて、自分の意思をジルアンに伝えることが稀なのだった。 ジルアンは常に強くあらねばと己に課し、妻や子の前でも弱ったところを見せることはなかったので、余計にそうだったのだろう。 死に掛けた今になってやっと妻に甘えはじめるなど、我ながら都合がよいと思うが、もっと早くこうしていればよかったとも感じた。 ――己の弱みを見せられなかったのは、互いにそうだったのかもしれないが。 結局は似た者どうしだったのだ、自分たちは。 「アトライン」 呼ぶと、妻は首を傾げて彼を見つめてきた。 「もう一度、手を、握ってくれ」 彼女は黙って、ジルアンの右手を両手で包んだ。初めて出会った二十余年前から変わらない、小さくて可憐な手だった。 ひどいやり方で陥れ、踏みにじった。 一目で恋に落ち、人の手から掠め取った。奪うことは容易かった。 けれど、手に入れるのは難しかった。 妻にしたことを後悔したことはなかったが、もっといいやり方があっただろうにと、長い時を経てようやく考えるに至った。優しくしてやって、ゆっくりと解いて、心を開かせて。他の女を相手にしてなら造作もなくできたはずのことを、愛した相手にだけできなかったのが不可解だった。 苦しめることは簡単で、喜ばせるのには難儀した。 どうすれば愛してもらえるかわからず、闇雲にからだばかり求めたこともあった。寝台のなかでだけ見られる泣き顔に、聞ける弱弱しい声に、夢中になったこともあった。子どもさえできれば何かが変わるかもしれないと期待したことが、却って彼女を悩ませた。そして、疑いと怖れに駆られて口にしてしまった一言で、彼女を死のふちまで追い詰めてしまった。彼女が何よりも愛する息子の目の前で。 手に力をこめると、冷たい指がしっかりと握り返してくる。 だんだんと、脳裏に紗がかかったように、ものが考えられなくなっていく。手を握り返してくれる強さだけが、彼の意識を繋ぎとめていた。次はいつ、正気に戻れるかわからない。 もう、手放してやらなければ、と彼は思った。 「……そろそろ、休め。明日も、謁見に立つのだろう……」 甘い声が、耳元で答えてくれる。 「だいじょうぶ。ここにいます」 泣きそうな声で、彼女が紡いだ。 「ここにいたいのです」 その言葉は、彼には聞こえなかった。 「私のすべてが、あなたのため」 ジルアンは、死の床で、妻が優しく囁くのを聞いた。その言葉は、彼女の涙とともに彼だけのものになり、他の誰にも届くことはなかった。 「私もだ」 この返答が正しかったのか、それとも間違っていたのか、天は考える暇を与えてはくれなかった。けれども、妻が嬉しそうに微笑んでくれていたのがわかったので、子どものように許された眠りのなか、ジルアンは安らかだった。 |