深淵 The gulf
26





 空腹は感じるのに、ものを口の中に入れたくない。 
 グラニスが北の離宮にやってきたのは、朝の謁見を終えてすぐのことだった。入れ替わりに、昨日の夕から夜通し母の隣についていたロレンツが自邸へ帰っていった。
 昨日の夕餐は急ぎの政務で中断しなくてはならないまま、結局ほとんど手をつけられなかった。朝食はカメリアとともにしたので、彼女を心配させないていどには食べた。
 ここにいるあいだの食事には、離宮の厨房の者が気を遣ってくれていた。
 母は病人で、豪華な食事を好まない人でもあったので、グラニスに出されるものもそう大層な料理ではなかったが、味はよかったし量も適度だった。グラニスがここにくるのは早朝だったり深夜だったりと不規則だから、いつでも何か摘まめるようにと用意までしてくれている。
 酒が飲みたい気分だったが、母が死に掛けている横でそこまで不謹慎なまねもできない。
 母の病室からは、膿んだ床ずれの始末をするからと言われて、他の見舞い客たちと一緒に追い出された。
 グラニスは長椅子に背を預け、目を閉じた。
 仮眠をとらなくては、帰ってからの政務に障る。
 だが、眠ろうとしても腹がすくので目がさえる。
 側の卓の上から水差しを取る。グラスに注いで一息に飲み干した。
 喉が渇く。
 扉が軽く叩かれた。厨房の者でも来たのだと思って返事をしなかった。
 しばらくして入ってきたのは、ここにいるはずのない女。
 外出用の地味な帽子を被って、小さな鞄を抱えたブリシカだった。
「ご機嫌麗しゅう、陛下」
 さすがに優雅な礼をとり、彼女はゆっくり歩み寄ってくる。
 グラニスは彼女に、出来る限りシーネイアの側から離れるなと命じている。だから、彼女はこんなところにいるはずがないのだ。
「いらっしゃるのなら、お返事くださいませ。わたくしはこちらは十年ぶりですから、勝手もわからず迷うておりますのに」
「どうしたんだ。なぜここに?」
 彼女は澄ました顔で答える。
「シーネイアさまのご命令で」
「命令?」
 訝しげに問うグラニスに、彼女は小さい、本当に微かな笑みを浮かべて見せた。
「お届けものがございまして」
 と、彼女は大儀そうに小さな鞄から封筒を一枚取り出した。
 ブリシカは、その白い封筒をグラニスに向けて差し出した。
 何の変哲もない封筒だった。しかし、よく見れば、花の模様の浮き出た可憐な意匠のしろものなのだとわかる。
 紺青のインクで書かれた宛名。
「私に?」
「他にどなたがいらっしゃいます」
 確かに、国王陛下へ、と宛ててある。
 裏には、隅のほうに小さく差出人の名があった。
 シーネイア・エイダ。
「書かせたのか?」
 ブリシカが、心外だ、とでも言うように表情から笑みを消した。
「シーネイアさまが昨日の夕餐のあと、手紙を書くから届けてほしいと仰せになりました。お預かりしたのが今朝のことです。お届けするのが遅れて申し訳ございません。わたくしは馬には乗れませんので」
「……誰ぞ捕まえて、早馬でも出させればよかっただろう。おまえにはシーネイアの世話を任せているんだ。簡単に離れられては困る。シーネイアの頼みであってもだ」
 ブリシカは、グラニスの叱責に目を伏せる。
「わたくしも、陛下は夜には王宮へお戻りになるのですから、それからでも遅くはないと申し上げました。他の者に任せても、必ず陛下にお届けできるとも」
 ブリシカは鞄の取っ手を握り締め、ふいとあらぬ方に顔を向ける。
「北の離宮にいらっしゃる陛下のところへ、わたくしに届けてほしい。そうおっしゃって聞いてくださいませんでした。半年のあいだお仕えして、我儘などおっしゃるのは初めてのことでございましたから、わたくしもおろおろするばかりで」
 グラニスは眉をひそめ、手の中の手紙を見下ろした。
「わたくしは北の離宮には長く参じておりませんから、慣れた者に行かせるのがよいと申し上げたのです。シーネイアさまは、それならなおのこと行かなくてはと、泣きそうな声で仰ってくださいました」
 ブリシカの声は震えていた。
「ご自分はアトリーさまのお見舞いができるような身分ではないから、こんなかたちでしか行かせてやれない、許してほしいとおっしゃるのです。それでも、陛下にお許しをいただけばきっとアトリーさまに会うことが出来ると、励まして見送ってくださいました」 
 グラニスは、この気丈な女が嗚咽をこらえているのに気がついた。
 ブリシカは、十年前に母の頼みを受けてグラニスに仕えはじめてから、一度たりともこの北の離宮には足を踏み入れていない。休暇の間に訪れることも難しくない場所なのに、かたくなに母に会うことをしなかった。シーネイアの部屋を任せてからもそうだった。
 グラニスは立ち上がり、頼りない肩を抱いてやる。
「すまん。……気がつかなかった。許せ」
 母が危篤の床にあることがわかったのは、既にグラニスがシーネイアの側を離れるなと命じたあとだった。彼女はその命令を忠実に守っていた。
 けれども、ブリシカは、母が誰より信頼した侍女であり、友人だ。
 せめて一目でも会いたいと思わなかったはずがない。
 グラニスはブリシカからそっと離れた。
「出ていってくれるか。手紙を読みたい」
 ブリシカがはっとして顔を上げる。
 グラニスは、左手で廊下に続く扉を開いた。そこから見える一室を示す。
「いま、向こうの部屋で病人の体の世話をしている。女手があれば、助かるかもしれない」
 ブリシカは深く頷いた。
「まことに、ありがとうぞんじます、陛下」
「礼は帰ってからシーネイアに言え」
「急いで戻らせていただきます」
「ブリシカ」
 彼女は、顎を引いてグラニスの言葉を待っている。
「この離宮をどう思う?」
 部屋を見回して、いっとき思案したあと、ブリシカは言った。
「静かなお住まいだと思います。アトリーさまは、穏やかにお暮らしだったのでしょう」
「正直に言ってくれ」
 ブリシカは肩を竦めた。
「先代様の生前に伺ったときは、あまりの狭さに驚きましたし、都からは遠いので不便なことこのうえないと。不遜にも、アトリーさまには相応しくない邸宅だとも。今は……、今は、先代様のお心が察せられます」
「父の?」
「都の喧騒から、少しでもアトリーさまを遠ざけて差し上げたいとお思いだったのではないかと」
「それにしては近すぎはしないか?」
「お守りしたくとも、手放して差し上げることはできかねたのではありませんか」
 その言葉に、グラニスは目を瞠った。
「いかがなさいました?」
「いや。……もう一つ聞いてもいいか?」 
 グラニスは顔の横に小さな封筒を掲げてみせる。
「これは、おまえをここに遣る口実か?」
 ブリシカが神妙な表情で小首を傾げる。
「さあ、わたくしには、わかりかねます」
 グラニスは唇を歪める。
「まあどちらにしろ、返事をやらねばならん。書き終えるまでは帰るなよ」
 ブリシカは一瞬呆けたあと、背筋を伸ばして微笑を浮かべた。
「かしこまりまして」
 彼女の足音が聞こえなくなったあと、文机の引出しからナイフを取り出して、グラニスは長椅子に深く掛けた。
 右手に握った封筒を見つめ、宛名と差出人の名とを確かめてみる。
 時間をかけて封を切った。
 入っていたのは、便箋が二枚だけだった。たやすく破れてしまいそうな薄紙だ。
 そっと開くと、端正で小さな文字が目に入る。生真面目そうな細い筆跡だった。
 それは、『お手紙がご迷惑だったならばお許しください』という書き出しで始まっていた。
 勝手にブリシカを側から離れさせて申し訳ないということ、お咎めは自分が受けるので、ブリシカを責めないでほしいということが、丁寧な文章で記されていた。
『王太后陛下のお苦しみが取り除かれますようお祈りしています』
 一枚目はその一文で締めくくられていた。
 そこまで読んで、やはり次いでではないか、とグラニスは目を眇めた。
 グラニスは二枚目の便箋をめくる。
 手紙には続きがあった。
 グラニスが出て行ったあときちんと夕餐を摂ったこと、ブリシカが使い慣れた針箱を返してくれたこと。手紙を書いている横で、侍女たちがお喋りしながら封筒や封蝋を選んでくれていることなどが、簡潔に綴られていた。
『陛下にお話しなくてはいけないことがありますが、うまく書くことが出来ないので、次にお会いできたときにお伝えできればと思います』
 お待ちしています。
 瞬きも忘れて、その一文に見入ってしまった。
 親指でインクのあとをなぞってみる。
 グラニスが忙しいだろうからいつまでも待っているだとか、心から来訪を待ち焦がれているだとか、そんな当たり前の飾り文句さえなかった。
 素っ気無いほど直截な一文だった。
 もう一度、筆跡に指を這わせる。
 この書簡に、返事はいらない。












 滑るように秋の陽が落ちたころ、母が息を引き取った。
 ブリシカに手を握られ、言葉をかけられながら、けれども最期まで意識は戻らなかった。
 死に化粧をされ、白い衣服を着せ掛けられた母の屍は美しく、その顔はひどく安らいで見えた。
 













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