深淵 The gulf 16 その夜の彼女は、わずかばかり明るい表情をしていた。 昼間にアジェ侯爵家からの遣いがやってきたという。 故郷の話でもしたのだろう、はじめての客人に気が晴れた様子だった。 グラニスは翌日の朝方ちかく、常になく目を覚ました。 瞼をあけると、隣にシーネイアはいなかった。 かすかな体温を敷布に残して、彼女は寝台を離れていた。 グラニスは目をこすり、気怠い上体を起こした。 部屋は薄暗い。窓掛けの合間から漏れくる青い朝日が絨緞に光の線を描く。 その光を頼りに寝台の外を見回すが、彼女の姿はなかった。脱ぎ捨てた夜着は彼女のぶんだけなくなっていた。拾いあげて袖を通し、靴を突っかけ、前を掻きあわせながら隣室へむかう。 大きな寝台を持つこの寝室は、グラニスを迎え入れるための場所だった。居室とは扉一枚で繋がっている。 広い居室にも彼女はいなかった。 空気はひんやりと静まり返り、いまだ夜を抱き込みながらまどろんでいるようだった。 向かいの扉が、薄く開いていた。 あれは、彼女ひとりが眠るときのための寝室に繋がっている。小さいが美しい意匠の寝台に、化粧箪笥だけのある狭い部屋だ。彼女がこの一角にやってきてからは、グラニスも立ち入ったことはなかった。 そこにいるのだろうか。 グラニスはゆっくりと歩いた。足音をたてぬよう忍び寄った。 扉は、音もなくゆっくりと開いた。 寝台の傍ら、小さな化粧箪笥のまえに、シーネイアは立っていた。 グラニスの目は薄暗闇に慣れ始めていた。 だから、彼には彼女の表情がつぶさにわかってしまった。 彼女はこうべを俯きかげんに、右手を持ち上げていた。 その白いなめらかな手の上からは、鈍くかがやくものがこぼれていた。 目を凝らすと、それがまるで糸のように細い銀の鎖だとわかる。 彼女の目はまたたきもせずに一心にてのひらに注がれていた。長く濃いまつげが頼りなげにかすかに震える。細い眉は僅かに寄せられ、唇はきつく噛み締められ、その色を濃くしている。 拭いようのない憂いを帯びた、美しい横貌だった。 同じような顔をした女をグラニスは知っていた。 それは、彼のずっと幼い頃。 その女は、日の落ちる豪奢な部屋のなかで、赤い夕日をおもてにうけて、悲しい瞳で外を見ていた。決して手に入らないものに焦がれるかのように、はるか遠くを。 女は決してグラニスを振り返ってはくれなかった。 その心は、守るべき地位と名誉でもなく、夫でもなく、母を見つめる子でもなく、過ぎ去りし思い出を求めていた。そうグラニスが理解できるようになったのは、何も知らぬ子供ではおれなくなったころだった。 近寄りがたいほどにはかなく見えた母の顔が、今のシーネイアに重なる。 「シーネイア」 名を呼んだ。 シーネイアははっとして顔を上げた。 「それは何だ?」 おのれの声が底冷えするほど寒々しいのに、グラニス自身は気づいていなかった。 彼女は指を握りこみ、小さな拳を胸に引きつけた。眉はますますひそめられ、瞳は揺れていた。 彼女は唇を開きかけた。ためらうように噛み締め、おそるおそる言葉をこぼす。 「母の……、母の形見です」 グラニスは吐息だけで笑った。 「母の形見を、そんな目で見るものか」 あれは、男を想う女の顔だ。 彼女の目が大きく見開かれた。熱く潤んでいる。 それがグラニスの苛立ちを煽った。 「毎晩か? 私と共寝したあと、それを眺めて男に許しでも乞うているのか」 グラニスは彼女を追いつめていった。彼女は今にも泣き出しそうだった。その表情に、疑いはどんどん膨れてゆく。 「昼間に会った人間とは何を話した? 情夫にことづてでも託したか」 「ちがいます。ちがいます、そんなこと……」 彼女は弱々しく首を振る。 艶やかで繊細な金色の髪を、グラニスはついさっきまで指で梳いて愛おしんでいた。 この髪に触れた男がいる。 そうだ、あの男だ。 彼女を侯爵領の城下町で初めて見たとき、隣には黒髪の青年がいた。彼女はその男に、無邪気であたたかな笑顔を見せていた。 「……白々しい」 グラニスはシーネイアの肩を掴み、背後の寝台へ突き飛ばした。グラニスはその上に乗り上げて覆い被さり、彼女が身を起こそうとするのを制した。 「いや!」 両腕を捕えて押さえつけようとしたが、細い右手が鎖を握ったまま逃れようともがいたので果たせなかった。それを乱暴に掴んで、指の間から力任せに鎖をむしり取る。細い鎖はあっけなく切れてしまい、鎖に通されていたものは床の上にむなしく転がった。それが何なのか確かめる必要もなかった。 グラニスは、引きちぎった鎖までも寝台のそとへ投げ捨てた。 シーネイアは悲愴な表情を浮かべて床を見つめていた。 グラニスはその顎をとり、無理やりにくちづけた。首筋に顔を埋め、薄い皮膚に噛みあとを付けながら、白い寝巻を無惨に引き裂く。 「いや、おやめください……、陛下……」 華奢なからだは力いっぱいに抗った。腕で厚い胸を押し返し、いやいやをするように首を振る。 「陛下、いや、……いや……」 今まで彼女は一度たりともグラニスを拒んだことなどなかった。 愚かにも、おのれは彼女に受け入れられているのだと思っていた。 言葉はやがて意味をなさないものになり、すすり泣きとも吐息ともつかない声が寝台のなかを満たした。 やめて、ゆるして。お願いです、陛下、もうやめて。 甘い、ものがなしい声が力なく繰り返す。 ゆるして、ゆるして、たすけて。あなただけ、あなただけなのに……。 最後の言葉は、自分に向けられたものではなかったことに、苦くも彼は気づいていた。 目を覚ましたシーネイアの身体を支配していたのは、不快なほどの重さだった。指一本満足に動かせない。かろうじて目を開けると、自分が寝台のうえにうつぶせに横たわっているのがわかった。目の横から頬にかけてがひりひりと痛む。涙をながしすぎたのだ。 そうだ、自分は、泣きながら眠ってしまったのだった。 シーネイアはきつく目をつぶる。身体じゅうを這った男の手の冷たさと、固い身体の重みを思い出す。どれだけ抗っても、いやだと叫んでも、聞き入れてはもらえなかった。 まるで罰を与えるかのように、彼はシーネイアを抱いた。 自分がものにでもなったような気がした。考え、動き、言葉を話す必要などない、玩具のように扱われたのだから。 シーネイアが夜中に寝台を抜け出したのは初めてではなかった。一晩中眠れなくて、中庭を歩いたこともあった。昨日は、故郷を思い出してしまって、どうしても指輪に触れなくては気がおさまらなかったのだ。 シーネイアは、はっとして身を起こした。グラニスに奪われた指輪は、あらそっている最中に彼が床に投げ捨ててしまったのだ。彼女は目を凝らしたが、それらしいものは見当たらなかった。絨緞に埋もれているのかもしれない。 そう思って、寝巻を着ようとあたりを探った。寝台のしたに、引き裂かれた白い絹が捨て置かれていた。 拾い上げようとしたそのとき、僅かな音をたてて、寝室の扉が開いた。入ってきたのは、完璧に身なりを整えたブリシカだった。整った歩調でこちらへ歩いてくる。その靴の下に、シーネイアの指輪がないとは限らないのに。 シーネイアは、ひどいありさまの寝巻を敷布のなかに潜り込ませた。 羞恥に俯きながら、小さな声で問う。 「ブリシカさん、床に、指輪が落ちていませんか?」 侍女は、痩せた身体を敷布でかくすシーネイアを一瞥し、抱えた盆を化粧箪笥のうえに置く。 「おはようございます、シーネイア様。そのようなものはございませんけれど?」 柔らかいブリシカの声が、なぜか、奇妙に寒々しく聞こえた。 事実、彼女は部屋にはいってから、張り付いたような微笑みを浮かべたまま、一度も床になど視線をやってはいない。 シーネイアは、おのれの声が震えているのに気づいていた。 「大切なものなの。自分で探しますから……」 「昨晩のお召し物はどちらへ?」 ブリシカはシーネイアを遮った。シーネイアには返す言葉が見つからなかった。敷布のうちで、冷たい絹を握り締める。 ああ、とブリシカは口のなかでつぶやいた。 「すぐに、新しいお召し物をお持ちいたします。それから、陛下からのご伝言でございます。すぐにでも御用商人をおつかわしくださるそうですから、お好きなドレスや宝石がございましたら、自由に言いつけてよろしいということです」 和やかな笑みのまま、彼女は部屋を出ていった。 シーネイアは薄い敷布を身に巻き付けて、寝台をおりた。みっともないことだとわかってはいたけれど、床に膝をついて絨緞に手を這わせた。 部屋中を探し回った。寝台の下までも丹念にさぐったのに、どこにも指輪はなかった。 国王が、シーネイアが意識を取り戻す前に、持ち去っていってしまったのだ。 厭わしいほどに長い、絨緞の毛足をつかみしめる。 あれだけだったのだ。 故郷を思い出させてくれるもの。愛しい人たちの触れたもの。 もう自分の心も身体も自分のものではなかった。 あの指輪だけがたったひとつのシーネイアのものだった。 むなしい笑みが唇に浮かんだ。 泣けば、誰かに見咎められないとも限らないからだった。 |