深淵 The gulf







 ついさっきまで彼の大きな背中が見えていたはずなのに、今は彼らしい男が見当たらない。シーネイアは往来の中を立ち止まって、きょろきょろと辺りを見回した。
 後ろから男にぶつかられ、「止まるな、邪魔だ!」と罵られた。そんな言葉を向けられたのは初めてだったので、シーネイアは怯えるどころか唖然としてしまった。
 しばらく立ち直れないでいると、腰のあたりに丸い温かいものがとどまっているのに気がついた。
 男の子だった。
 男の子は俯いたまま、小さな手でシーネイアのスカートをつかんでいる。
 茶色いさらさらの頭のてっぺんには、つむじが二つ渦巻いている。
「どうしたの」
 シーネイアはかがみこんだ。
 男の子は顔を上げて、上目遣いにシーネイアの顔を見た。にらみつけるような目だ。
 シーネイアは腰を屈めて視線を合わせた。
「誰と一緒に来たの。おとうさん?」
 年は四つくらいだろうか、周りに親らしい人物はいないようだった。
「迷子になったの?」
「迷子じゃないよ」
 男の子は口先を尖らせる。
「おかあさんがいなくなった」
 立派な迷子だ。この男の子も、そしてシーネイアも。
「ここに来たのは初めて?」
 男の子は首を振る。
「御屋敷におとうさんが住んでる」
「じゃあ、今日はおかあさんとここに来たのね?」
 小さく頷く。
 シーネイアは考え込んだ。
 シーネイアもこの子も、この街に来たのは初めても同然だ。下手に歩き回ってはますます迷ってどこかわけのわからないところへ出てしまうにちがいない。かといって今屋敷に戻れば、この子を探しているだろう母親と、マクシミリアンが途方にくれることになる。
「お菓子を貰いに行きましょう」
 シーネイアは男の子の手を握った。
 通りかかった女に道を尋ねて、菓子や酒を振舞っている店を教えてもらい、二人でそこへ向かった。子供を連れていたからなのか、それとも店番の男が言うように「お姉ちゃんがべっぴんだから特別だ」からなのか、二人は紙袋いっぱいの菓子を貰ってそのまま広場のほうへ向かった。
 よくよく聞いてみると、この城下町の作りはとても単純なのだった。
   ブレンデン邸からの一本道は、下ればそのまま城下町を南北に貫く大通りに繋がっている。敷石で覆われた立派な街道だ。数代前に整えられたのだという。
 春に街から屋敷を見上げると、丘一面に広がった白い花のせいで、まるで雪の床の中に館が建っているように見える。万年雪の御屋敷というのが、ブレンデン邸の異名なのだそうだ。
 大通りの両脇にはあらゆる店が軒を連ね、住宅は外側に広がっている。東西を分ける広い街路があって、それと大通りの交わる場所が、催しがなされるという広場らしい。
 通りの外側、あまり人の多くないところを選んで、シーネイアは広場へ進んだ。
「ディンムのおとうさんは、御屋敷で何をしてるの」
 男の子はディンムと名乗った。年は五つだと言った。
「お馬飼ってる」
 ディンムの父親は、厩舎に勤める誰かだろうか。ここ数年は厩舎には入っていないが、男たちの顔くらいは思い浮かべられる。
「おとうさん、ぜんぜん帰ってこないよ。兄ちゃんたちもどんどん御屋敷につれていく。いま家にいるの、おかあさんと僕だけだよ」
「お兄さんも、馬の世話を?」
「うん。おとうさん、いつも、おまえも連れてってやるぞって言うよ。お馬にも、きれいなお嬢様に会わせてやるって。ちょっと会ってみたいけど、お嬢様の話したらおかあさんがぷりぷりするから、いやだな」
 おそらく、お嬢様とは自分のことだろう。こんな小さな子や妻に寂しい思いをさせているような気がして、シーネイアは少し申し訳ない思いだった。
「おとうさん、馬も好きだけどお嬢様も大好きだよ。僕達のことほったらかしなのに」
 シーネイアは、まさかディンムに向かって名乗って謝るわけにもいかないと思った。
 自分のぶんの紙袋に入っていた砂糖菓子を、こっそりとまるまるディンムの袋に入れた。
 広場へ近づくにつれてますます人が増え、二人は身動きもとれなくなってしまった。
 シーネイアはディンムの手を握ったまま、何とか広場の様子を見ようとした。
「見たい、見たい!」
 ディンムが言うので、シーネイアは彼を高く抱き上げてやった。子供を抱くのははじめてだったので要領がよくわからなかったが、ディンムのほうがシーネイアにしっかりと抱きついてくれた。
「何か、見える?」
「お馬! おとうさん!」
 シーネイアの手から力が抜ける。ディンムは見事に着地した。
「おとうさんがいたよ! お馬と、お花の車といっしょ!」
 ディンムの肩に手を置いて、シーネイアは精一杯背伸びをした。人だかりに囲まれて、見事な見事な花馬車が二台と、それからブグネル親方が立っていた。
「ブグネルさん?」
「おとうさん!」
「ディンムのおとうさん、ブグネルさんなの?」
 満面の笑みでディンムは頷いた。
 そう言えば、どことなく彼は親方に似ているような気がする。そういえば、同じ髪の色の若い男が、二人ほど厩舎にいたはずだ。マクシミリアンとも仲がよかった。
 シーネイアがにこにこしてディンムの話を聞いていると、後ろから声がとんできた。
「シーナ!」
 はっとして振り返ると、そこにはマクシミリアンがいた。駆け回ったのだろうか、肩で息をしている。
 シーネイアはディンムの手を握ったまま、彼に駆け寄った。
「ばか、探したんだぞ。……この子供、何だ?」
「ディンムよ」
 ね、とシーネイアはディンムに微笑みかけた。マクシミリアンはしばらく眉を寄せていたが、思い出したように目を見開く。
「わかった。ブグネル親方んとこの末っ子だ。なんだおまえ、迷子になったのか」
 マクシミリアンはディンムの髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜる。ディンムが嫌そうに顔をしかめ、口を開くより先に、「迷子じゃないわ」とシーネイアが言った。
「おかあさんがいなくなったのよ。そうよね」
 ディンムが頷く。
 マクシミリアンはため息をつく。
「おおかた、花馬車のお披露目を見ようってかあさんに連れられてきたんだろ。それなら近くにいるはずだ」
 マクシミリアンはディンムの両脇に手を差し入れた。ディンムがあっと小さな声を上げると同時に、彼の小さな身体は宙に持ち上げられていた。
「わあ、高い!」
 ディンムははしゃいだ声をあげた。
 マクシミリアンはディンムを肩車したままで歩き始めた。
「かあさんを見つけたら大きな声で教えろよ。うるさくて聞こえないからな」
 シーネイアは紙袋を抱え直して、後に続く。
 マクシミリアンの足取りはまっすぐで、そして頼もしかった。





 ディンムの母親はすぐに見つかった。ディンムが人混みの中から見つけだしたのである。
「おかあさん!」
 マクシミリアンの肩から下りるなり、ディンムは母親に急いで駆けよった。
 ディンムの母親は、ディンムと同じ明るい茶色の髪をひっつめにまとめた気の強そうな女だった。彼女の丸い目はディンムをとらえるとますますまるくなり、次の瞬間には恐るべき角度に吊り上がった。
「この鉄砲玉!」
 母親はディンムの頭をばちんとはたき、マクシミリアンにふかぶかと頭をさげた。
「おかあさん、頭、いたい!」
「あんたもお礼を言いなさい!」
 母親はさんざん謝辞をのべると、お辞儀をして、ディンムを引き摺りながら再び人だかりの中へ戻っていった。
 顔を知られているかもしれないシーネイアは終始後ろを向いていたが、ディンムが母親に引っ張られながらも「ばいばいねえちゃん」と甲高い声をあげたときだけは、振り返って控え目に手を振った。
 シーネイアは、腕の中に二人分の菓子の袋が残っているのに気づいたときは後悔したが、同じものをディンムの母親が抱えていたことを思い出して安堵した。
 マクシミリアンは、母親を見つけて別れるまでのあいだ、あっけにとられて頷いていることしかできなかったという。厩舎の荒くれ馬を束ねるブグネル親方を、さらに操縦する女だけあって、迫力も勢いも想像以上だったそうだ。
 二人は広場を離れて、路地裏をゆっくり歩いた。
 狭い道を、追いかけっこでもしているのか、子供が連なって走ってゆく。仲睦まじい老夫婦がにこにこと笑いながら彼らを見つめる。
 民家の勝手口、洗濯物の干された軒下、どこか薄汚れた、けれど暖かな暮らしの知れるものひとつひとつに、シーネイアは目を輝かせて見入っていた。マクシミリアンは黙ってシーネイアの側を行く。シーネイアが足を止めると歩みをやめて、進み始めるといつのまにか少し先を歩いていた。
「王様の馬車が通るよ!」
 子供が、マクシミリアンの脇を駆け抜けて大通りへ走って抜けた。
「侯爵様もお姫様も見られるよ!」
 マクシミリアンはシーネイアに目をやった。
「見に行くか?」
 シーネイアは頷いた。
 マシクミリアンがシーネイアの左手をとり、子供たちを追いかけるように駆け出した。





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