深淵 The gulf 7 ドレスの裾が足に纏いつく。幾重ものペチコートが重い。 それでもシーネイアは足を止めなかった。立ち止まれば自分がその場に屈みこんでしまうことがわかっていたからだった。 中庭の渡り廊下を抜け、館から離れて丘を下りた。 春の館は、数え切れないほどの花で満たされていた。 けれど、それを美しいと思うこともできままに湖まで下りてきてしまった。 春の湖だった。 水面はきらきらと陽光を受けてきらめいて、水鳥を泳がせている。 透明な水の底に、水草がゆれているのが見えた。 どうしてここにやってきてしまったのだろう。 あまりの眩しさに、目を瞑ってしまいたくなる。 「帰らないと……」 ここにいたところで、何がどうなるわけでもなかった。 シーネイアが突然に部屋を飛び出していったことを、あの秘書がロレンツに告げていないともかぎらない。そうすればまたロレンツの不興を買うことになるだろう。 湖に背を向けて、シーネイアは歩き始めた。 坂道の上に、ひとつの人影があった。 長く黒い影は、マクシミリアンのものだった。 「シーナ?」 マクシミリアンが大股で道を下りてくる。 「どうした? 飛び出していったのが見えた」 ロレンツの言葉が脳裏によみがえった。 『おまえと妙に親しいというのはどの下男だ』 あれは、おそらくマクシミリアンのことを言っていたのだろう。彼は、シーネイアが調理場や厩舎にシーネイアが出入りしていたことも知っている様子だった。 館の中の誰かが、ロレンツがいない間のシーネイアの品行を観察しているのだろう。 夕方の人のない中庭で二人で並んで座っていること、彼がシーネイアの部屋にこっそりと菓子を持ってきてくれること、シーネイアがマクシミリアンのところに本を貸しにいくこと。 決してやましいところがあるわけではないが、二人は人目につかないようにして会っていた。 そんなささいなことでも、何もかも兄には知られているのかもしれない。 「どうしたんだ。顔が青いよ」 はっとして顔を上げた。 マクシミリアンの黒い瞳と視線がまじわった。 今だって、誰に見られているかわかったものではなかった。 シーネイアは十四、マクシミリアンは十七。どちらも、もう結婚していてもおかしくはない年齢だ。いくらシーネイアが妾腹の娘だとはいっても、マクシミリアンが乳母の息子だとはいっても、身分の違う二人が親密にしていることは身持ちの悪いことだろう。 どうして気づかなかったのだろう。 気づかないまま、無邪気でいられたのだろう。 「どうも……どうもしないわ」 目を伏せた。 「もう、帰るわ」 早口で言って、シーネイアは歩き始めた。 マクシミリアンの脇を擦り抜ける。 湖を離れて急ぎ足で坂を上り、館の裏口にまで近づいた。マクシミリアンは追いかけてきた。 建物の大きな日陰には、幸いにも人気はなかった。 「おい!」 肩を掴まれた。昨日までならば、なんでもない仕種だった。 シーネイアは足を止めた。彼の顔は見ずに、声を搾った。 「……離して」 彼の手を払う。 「二度と触らないでちょうだい」 マクシミリアンにこんなことを言う日がくるなどとは、思ってもみなかった。 ずっと、この館で、穏やかに静かに暮らせるものだと思っていた。 この人と二人で、いつまでも子供のときのままのように。 苦しかった。 歯がかたかたと震えて、目頭がとても熱くなった。 唇をかみしめてこらえた。 首の下のあたりが、引き搾られるように鋭く痛む。 もうこれ以上に長く、マクシミリアンと二人きりでいたくない。 早くここを立ち去らなければ、誰かに見つかって咎められるよりも前に、シーネイア自身が壊れてしまいそうだった。 けれど、マクシミリアンと離れたくない。 それはどうしようもない矛盾だった。 「おまえ、旦那様に呼ばれて行ったんだろ。何か言われたのか。そうでないと、おまえがこんなことするわけないだろ?」 シーネイアは顔をあげた。 それは、マクシミリアンの問いに是と答えるも同じことだった。 「そうなのか?」 シーネイアは身を引いた。 のぞき込むように見下ろしてくる彼の目の優しさに、縋ってしまいそうになったから。 「ひどいことを言われたのか? だって、おまえ……」 泣きそうな顔をしてるじゃないか。 「私、泣いてなんて……」 頬に手を当てた。涙は流れてはいなかった。 アーニャと約束したのだ。 もう泣かないと。 自らをおとしめて卑屈に泣くことは、シーネイアを育ててくれたアーニャをも侮辱することになる。悲しくて泣くことは、そのままアーニャを悲しませることになる。 いや、アーニャのためだけではなく。 「何て言われたんだよ。使用人なんかと馴れ合うなって? 俺と仲良くするなって?」 マクシミリアンの両手がシーネイアの肩を掴んで揺さぶった。 口調が激しいものになっていく。 シーネイアの気持ちが沈めば沈むほど、マクシミリアンの感情が昂ぶってゆくように思えた。 この人は、私の代わりに怒ってくれているのだろうか。 話してしまってもいいのだろうか。 マクシミリアンが顎を上げる。 「言えよ」 その眼差しは真摯なものだった。 「俺に言わないなら、おまえが、他の誰に話せるんだ」 シーネイアはおずおずと唇を開いた。 それでも、しばらくは声が出なかった。 「……おとうさまは、私を、誰かに嫁がせるつもりでいたんですって」 嫁ぐという単語が、妙に浮いて聞こえた。 マクシミリアンの前では口にしたくない言葉だった。 「だからロレンツさまは、これから家庭教師の先生も変えるし、みんなと仲良くするのも許さないって」 自分の側にいるのが彼でない男だという光景など、想像もできなかったのだ。 「わたしは、身分のことを自覚していないって。それに、私がそういうふうになったのは、アーニャやおかあさまのせいなのかって」 屈辱が身の内によみがえってきた。 肩を掴むマクシミリアンの手に力がこもる。 細い声で続けた。 「悔しくてたまらなくて、でも何も言い返せなかった。こわかったの。部屋を出ていけって言われても、指一本動かなくて……」 震え始めた手が、縋る場所を求めてさまよった。 向かい合ったマクシミリアンのシャツの襟を、指先がとらえて握り締めた。 「……それで、おまえは旦那様の言う通りにするのかよ。そんな、おまえのことなんか少しも考えてくれない人の言いなりになるのかよ」 彼の声はもう穏やかだった。けれど、その内には抑えられた怒りがあった。 ロレンツの冷たい表情を思い出す。 まるで汚れ物を見るような、凍りついた緑色の瞳。 「ほんとは、言いなりになんて、なりたくない……」 弱々しく首をふった。 「誰にも嫁ぎたくなんかない。いやよ。ミリアンじゃなければ、どんな人でもいや」 マクシミリアンが目を見張った。 口を開いて、シーネイアを凝視している。 シーネイアは、自分が何を言ってしまったのか、それでようやく気がついた。 額から首筋までに朱が差した。唇を手で塞いだが、遅かった。 シーネイアは、彼に恋をしているのだ。 もうずっと、ひどく遠い昔から。 シーネイアはマクシミリアンの腕のなかから逃れた。 心臓が高鳴ってうるさかった。触れられた場所がじわりと熱くなる。 「わたし……」 おそるおそる手を伸ばす。 マクシミリアンがその手を取り、やさしく強くシーネイアを引き寄せた。 抱きしめられて、シーネイアの背がしなる。肩口にマクシミリアンの顔がおしつけられる。黒髪の硬い感触がシーネイアの耳をくすぐった。 「今の、覚えてろよ」 彼の手が背にまわった。 痛いほどにきつくシーネイアの腰を抱く。 「もし旦那様がおまえを誰かのところにやろうとしたら、俺が攫って逃げるからな」 シーネイアは唇を綻ばせた。 「本当だぞ?」 彼が、シーネイアの髪をめちゃくちゃに掻き混ぜながら言う。 シーネイアは瞬きを繰り返した。 泣くまいとこらえたけれど、温かいものが頬をひとすじ伝わっていた。 この人が、シーネイアのかたわらにいて、大切にしてくれている。 シーネイアはドレスの上から、首に掛けた細い銀色の鎖に触れた。その先には、母がアーニャに託した指輪が下がっていた。 母はしのぶよすがを、乳母はかけがえのない温もりをシーネイアのために遺してくれた。 熱くなる額をマクシミリアンの肩に預けて、シーネイアはそっと目を閉じた。 |