深淵 The gulf 4 病の気配というものを、肌で感じたのは初めてだった。 饐えたにおい、薄暗い室内にただよう生温く濁った空気。 綿布を鼻と口に当てていてさえ、気分が悪くなる。 何重にも折り畳まれた清潔な布は、大陸かぜの感染をふせぐため、決して離さぬようにと医者から渡されたものだった。それを付けることなしには、医者さえ患者と同室にいてはならないのだという。 アーニャの部屋は、医院の最奥にあった。 そこにたどりつくまでにいくつもの病室の前を通り過ぎた。大陸かぜの威力はこの地ではそれほど強くないと聞いていたが、シーネイアの見たところ医院は患者であふれていた。 狭い病室の一つきりの寝台のうえに、アーニャは横たわっていた。 彼女の家族は息子のマクシミリアンただひとり。館の従者だった夫は十年近く前に他界していた。 だから、マクシミリアンが自分を迎えに出た間、彼女はたった一人でここにいたのだ。 こんなにも暗く寂しい場所に、病に身を侵されながらただひとり。 マクシミリアンが医者の許しを得てシーネイアのところへやってきたのは、あれからちょうど一日たったあとだった。 たった二日のあいだに、人の姿というのはこんなにも変わってしまうものかと、シーネイアは震えた。 アーニャは空を見つめていた。 熱に浮かされているのか、その黒い瞳は焦点を結んではいなかった。 肌はあせばみ、頬は紅潮しているのに、唇だけが白く石のようにひび割れていた。 その唇が苦しげに喘ぎ、開いては息を吐く。すると胸が奇妙なほどに高く盛り上がり、また沈んでゆく。 シーネイアは、扉の前から動けなかった。 マクシミリアンが寝台の脇に立つ。 「かあさん、シーナだ」 そう言って、アーニャの顔をこちらに向ける。ぼんやりとした瞳がシーネイアをとらえ、しばらくして僅かに光を取り戻す。 アーニャの唇がなにごとかささやいた。 聞き取ろうとしてシーネイアは寝台のそばの床に膝をつく。 「アーニャ、なに?」 耳を寄せるが、やはり聞こえるのは呼気のすべる乾いた音だけ。 「きこえない。なに?」 シーネイアはアーニャの顔をのぞき込む。 子供のような目をして、アーニャはふくよかな右腕を持ち上げた。そうして、シーネイアの隣に立つマクシミリアンを指差した。 「ミリアン? ミリアンがどうしたの?」 掠れた小さな声が聞こえた。 シーネイアは首を振り、マクシミリアンを見上げる。 マクシミリアンがシーネイアに代わり、アーニャに近寄った。長身をかがめて母の口元に耳を近づける。 「かあさん、わかるから、話して」 アーニャの右手がミリアンの腕に置かれた。彼女はシーネイアを見つめ、左手を伸ばす。シーネイアは口元の綿布を放り出し、その手をしっかとつかみ取った。 アーニャの手は、恐ろしいほど熱かった。 かつて繊細に布のうえを踊り、まるで創造主のように白絹に絵を描いてみせた五指は、むくみ、もはや持ち主の思い通りには動かないように見えた。 「シーナ、かあさんは……、かあさんは、俺がおまえのことを嫌ってなんかないって」 マクシミリアンの目が細められる。まるで子供を諭すように、彼は首を傾げた。 「……そんなこと、当たり前じゃないか。かあさんが一番知ってるだろ?」 声にならぬ母の声を聞き取り、マクシミリアンは幾度もうなずく。 「自分も、俺に負けないくらいおまえのことが好きだって。だから、泣くなって……」 マクシミリアンの腕がシーネイアを抱き寄せた。その拍子に涙が両頬を滑り、やっとシーネイアはおのれが泣いていることに気がついた。 「私も大好きよ。あなたが大好き。……もう泣かないわ。へいきだから、ね、もうしゃべらないで……」 シーネイアは、乳母の手を握り締めた。 幼い自分はこの手に憧れた。 この手が欲しいといつも願っていた。 シーネイアがほんとうに求めていたのは、この手に守ってもらうことだった。 自分は、この温かくてやさしい手がそばにあることだけを願っていたのだ。 シーネイアは寝台に突き伏した。 アーニャの左手がシーネイアの両手を握り返してきた。 「持ってきたよ。これ……」 マクシミリアンが呟き、懐から小さな布の包みを取り出した。それを広げてアーニャの顔の近くにまでもっていく。 訝しげに見つめるシーネイアにむかって、アーニャが、掠れてはいるがはっきりとした声で言った。 「……シーナさまの、ものですよ……」 マクシミリアンが、母に促され、手の中のものをシーネイアに見せた。 白いびろうどに包まれた、掌におさまるほどの小さな木箱。 そのなかには、くすんだ銀の指輪がおさめられていた。宝石もない、彫刻もほどこされていない、ふるぼけた指輪だった。 「おかあさまのものです。シーナさまとおかあさまにとって、とても大切な方からいただいたもの……」 やっとお返しできました。 そう紡いだ唇が、僅かにほころんだように見えた。 アーニャが、マクシミリアンの手とシーネイアの手を重ねあわせた。 二人の手の中で、びろうどがかすかな衣擦れの音をたてた。 「どうか、おそばから離さないで、ずっと大事になさってね。……きっと、シーナさまのお役にたちますから……」 乳母の手は、そっと離れていった。 乾いた両手が、白い掛布団のうえにぽとりと落ちた。 目を閉じた乳母は、まるで微笑んでいるかのように安らかな顔をしていた。 嗚咽をこらえるシーネイアの肩を、マクシミリアンの強い腕が抱き留めてくれていた。 彼もまた震えているのに気がついて、シーネイアはその背にてのひらを這わせた。 乳母が側から離してくれるなと言い残したのは、指輪と自身の息子と、いったいどちらのことだったのか。 シーネイアにはわからなかったし、またわからなくてもかまわなかった。 |