深淵 The gulf







 病の気配というものを、肌で感じたのは初めてだった。
 饐えたにおい、薄暗い室内にただよう生温く濁った空気。
 綿布を鼻と口に当てていてさえ、気分が悪くなる。
 何重にも折り畳まれた清潔な布は、大陸かぜの感染をふせぐため、決して離さぬようにと医者から渡されたものだった。それを付けることなしには、医者さえ患者と同室にいてはならないのだという。
 アーニャの部屋は、医院の最奥にあった。
 そこにたどりつくまでにいくつもの病室の前を通り過ぎた。大陸かぜの威力はこの地ではそれほど強くないと聞いていたが、シーネイアの見たところ医院は患者であふれていた。
 狭い病室の一つきりの寝台のうえに、アーニャは横たわっていた。
 彼女の家族は息子のマクシミリアンただひとり。館の従者だった夫は十年近く前に他界していた。
 だから、マクシミリアンが自分を迎えに出た間、彼女はたった一人でここにいたのだ。
 こんなにも暗く寂しい場所に、病に身を侵されながらただひとり。
 マクシミリアンが医者の許しを得てシーネイアのところへやってきたのは、あれからちょうど一日たったあとだった。
 たった二日のあいだに、人の姿というのはこんなにも変わってしまうものかと、シーネイアは震えた。
 アーニャは空を見つめていた。
 熱に浮かされているのか、その黒い瞳は焦点を結んではいなかった。
 肌はあせばみ、頬は紅潮しているのに、唇だけが白く石のようにひび割れていた。  その唇が苦しげに喘ぎ、開いては息を吐く。すると胸が奇妙なほどに高く盛り上がり、また沈んでゆく。
 シーネイアは、扉の前から動けなかった。
 マクシミリアンが寝台の脇に立つ。
「かあさん、シーナだ」
 そう言って、アーニャの顔をこちらに向ける。ぼんやりとした瞳がシーネイアをとらえ、しばらくして僅かに光を取り戻す。
 アーニャの唇がなにごとかささやいた。
 聞き取ろうとしてシーネイアは寝台のそばの床に膝をつく。
「アーニャ、なに?」
 耳を寄せるが、やはり聞こえるのは呼気のすべる乾いた音だけ。
「きこえない。なに?」
 シーネイアはアーニャの顔をのぞき込む。
 子供のような目をして、アーニャはふくよかな右腕を持ち上げた。そうして、シーネイアの隣に立つマクシミリアンを指差した。
「ミリアン? ミリアンがどうしたの?」
 掠れた小さな声が聞こえた。
 シーネイアは首を振り、マクシミリアンを見上げる。
 マクシミリアンがシーネイアに代わり、アーニャに近寄った。長身をかがめて母の口元に耳を近づける。
「かあさん、わかるから、話して」
 アーニャの右手がミリアンの腕に置かれた。彼女はシーネイアを見つめ、左手を伸ばす。シーネイアは口元の綿布を放り出し、その手をしっかとつかみ取った。
 アーニャの手は、恐ろしいほど熱かった。
 かつて繊細に布のうえを踊り、まるで創造主のように白絹に絵を描いてみせた五指は、むくみ、もはや持ち主の思い通りには動かないように見えた。
「シーナ、かあさんは……、かあさんは、俺がおまえのことを嫌ってなんかないって」
 マクシミリアンの目が細められる。まるで子供を諭すように、彼は首を傾げた。
「……そんなこと、当たり前じゃないか。かあさんが一番知ってるだろ?」
 声にならぬ母の声を聞き取り、マクシミリアンは幾度もうなずく。
「自分も、俺に負けないくらいおまえのことが好きだって。だから、泣くなって……」
 マクシミリアンの腕がシーネイアを抱き寄せた。その拍子に涙が両頬を滑り、やっとシーネイアはおのれが泣いていることに気がついた。
「私も大好きよ。あなたが大好き。……もう泣かないわ。へいきだから、ね、もうしゃべらないで……」
 シーネイアは、乳母の手を握り締めた。
 幼い自分はこの手に憧れた。
 この手が欲しいといつも願っていた。
 シーネイアがほんとうに求めていたのは、この手に守ってもらうことだった。
 自分は、この温かくてやさしい手がそばにあることだけを願っていたのだ。
 シーネイアは寝台に突き伏した。
 アーニャの左手がシーネイアの両手を握り返してきた。
「持ってきたよ。これ……」
 マクシミリアンが呟き、懐から小さな布の包みを取り出した。それを広げてアーニャの顔の近くにまでもっていく。
 訝しげに見つめるシーネイアにむかって、アーニャが、掠れてはいるがはっきりとした声で言った。
「……シーナさまの、ものですよ……」
 マクシミリアンが、母に促され、手の中のものをシーネイアに見せた。
 白いびろうどに包まれた、掌におさまるほどの小さな木箱。
 そのなかには、くすんだ銀の指輪がおさめられていた。宝石もない、彫刻もほどこされていない、ふるぼけた指輪だった。
「おかあさまのものです。シーナさまとおかあさまにとって、とても大切な方からいただいたもの……」
 やっとお返しできました。
 そう紡いだ唇が、僅かにほころんだように見えた。
 アーニャが、マクシミリアンの手とシーネイアの手を重ねあわせた。
 二人の手の中で、びろうどがかすかな衣擦れの音をたてた。
「どうか、おそばから離さないで、ずっと大事になさってね。……きっと、シーナさまのお役にたちますから……」
 乳母の手は、そっと離れていった。
 乾いた両手が、白い掛布団のうえにぽとりと落ちた。
 目を閉じた乳母は、まるで微笑んでいるかのように安らかな顔をしていた。
 嗚咽をこらえるシーネイアの肩を、マクシミリアンの強い腕が抱き留めてくれていた。
 彼もまた震えているのに気がついて、シーネイアはその背にてのひらを這わせた。
 乳母が側から離してくれるなと言い残したのは、指輪と自身の息子と、いったいどちらのことだったのか。
 シーネイアにはわからなかったし、またわからなくてもかまわなかった。





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