オダリスク 1 薔薇水の香り 熱気と湿気が渦巻いていた。 ツイーは、むせかえるような蒸気に目を細める。 この国の人々は、その場所のことをハマムと呼んだ。滅びた古えの帝国で生まれたという、湯気で身を温める大浴場だ。白い大理石の壁と床は、諸所を青いタイルで飾り立てられ、照明や蛇口は繊細な金鍍金の細工で統一されている。 ツイーは、女たちの寝そべる中央の石台を避け、壁際の蛇口の前に腰を下ろした。人気の少ないこの場所が、ツイーの定位置なのだった。 ハマムは女たちがおのれの体を磨く場所であり、閉ざされた後宮のなかで最大の社交場だった。女たちは一糸まとわぬ美しい裸体をさらしながら、互いを見定め、褒めあいけなしあう。仲間と談笑する者もいれば、ひとりで氷菓子を味わいながら垢すりをしてもらう者もいる。 ハマムでは、朝から夕まで、女たちがめいめい好き好きに過ごす。 ツイーは、盥に溜めた冷水に長い黒髪を浸した。 隣の蛇口を使う女が目にはいったが、見ぬふりをして髪を洗った。 ツイーは誰にも話しかけないし、誰にも話しかけられない。できるだけ、人とは関わらぬように暮らしている。ツイーはこの後宮で両手で数えられるくらいに古い女だったが、同じほどに特殊な女だと噂されていた。 ツイーは、十四の年に後宮に入った。 後宮にも珍しい象牙色の肌を持ち、異国の衣装をまとって、この国の言葉を話さない。日に五度の礼拝に参加せず、どこにいても人形のように顔色を変えず、気配もなく歩くこの女を、女たちは薄気味悪い、幽霊のようだと評して憚らなかった。 そんな女に、この後宮の主は一人部屋を与え、侍女を付けさせ、訪問を欠かさない。よほど皇帝の寵愛が深いのかと勘ぐられ、嫉まれることもしばしばだ。けれども、そんな疑いを抱いた女は、ツイーの出自とあざなを知って、笑ってその疑念を捨てるのだ。 部屋を与えられたのは体面のため。その証拠に、ツイーの部屋は後宮の端、入り口から最も遠い場所にある。 侍女をつけられたのも、ごく短い時間の儀礼的な訪れも、ツイーが後宮に囚われた人質だからに他ならない。 皇帝(スルタン)に捨て置かれた女。 ツイーは六年の間、そう呼ばれ続けていた。 それでも、皇帝の姿も見たこともないあまたの女よりは、随分幸福なのには違いないという者もいる。この後宮に女奴隷は数百あるが、一度でも皇帝の寵を受けられるのは、そのうちのほんのひとにぎりなのだから。 ツイーは何人かの女が連れ立って出て行く足音を聞きながら、おのれの髪を掬ってまとめた。濡れた髪は、ツイーの肩のうえでまるで綱のように重かった。石鹸を泡立ててひろげるのにも一苦労をする。 後宮に入れられて六年が経つけれども、ツイーはそのあいだ一寸も髪を切らなかった。少女時代に肩の上で揃えていた髪は、いまや腰骨を越す長さにまで伸びていた。 ツイーは、一房をとって指にまきつける。 細く量の多い毛は、手入れを怠ればとたんに傷んで艶をなくしてしまう。石鹸を流したあとは、うすめた林檎酢を全体に含ませて、ようやく結い糸を渡すことができるようになる。 洗い髪を頭のうえで束ねてしまい、ツイーは人の少なくなった中央の石台に上がった。 大人の十人は寝転べる大きさの石台は、人肌に心地よい熱さに保たれている。うつぶせに身を横たえると、胸の下から足の付け根まで、じわじわと肌が温まってくる。そうすると体の芯までも温められて、首や背、顔にまでうっすらと汗が浮かんできた。 ため息をつくツイーの前に、中年の女がグラスを差し出してきた。ざくろの果実水に、氷を浮かべた飲みものだった。 「ありがとう」 ツイーは短く礼を言う。ツイーがこの国の言葉を解することを知っているのは、この女を含めたごく僅かの人間だけだ。 「はじめるよ」 女は両手に毛皮の手袋をはめ、ツイーの脇に膝をついた。 そして、ツイーの首のうえから肩まで、肩から二の腕までを、てのひらでゆっくりとさすりはじめた。按摩はゆっくりと背中から足までにおよぶ。 冷たいグラスに頬を寄せながら、ツイーは恍惚に目を閉じる。 垢すりの按摩のあとは、肌に薔薇水を垂らされる。ツイーは思わず瞼をあけて、その冷たさに肩をすくめる。 白い湯気に、紅色の香気がまじるような気がする。 女の大きく節ばった手が、薔薇の香りをふんだんに広げ、肌に揉みこむ。 「やっぱり、あんたみたいな肌の女は他にいないよ」 後宮で最も多くの女の肌を知っているのは、皇帝ではなくハマムに仕える女たちだろう。なかでも年かさのこの女は、ツイーの身体に触れるたび、感嘆とともにこう漏らす。 「惜しいことだよ、皇帝のお手がつかないのは」 ツイーは小さく苦笑した。 ツイーの象牙色の肌は、空気の乾いたこの国では、日にやけて荒れてしまいがちだ。滑らかに健康に保つためには、朝晩の手入れは欠かすことができなかった。 「こういうのを宝の持ち腐れというんだよ」 女の言葉を聞きながら、ツイーは果実水をひとくち含んだ。熱にぼうっとしかけた頭に、甘さと冷たさが快い。 六年前に故郷から連れ出され、はじめて薔薇水を肌に使われたとき、そのあまりの香りと心地よさに、ツイーは絶望と怒りを癒やされたものだった。 時は水のように流れ、ツイーの上に積み重なった。 あの男に操を奪われた日、身体は故郷の川の水の味を忘れた。その代わりに薔薇水の香りを覚えさせられ、すっかり慣らされてしまった。 ツイーは、さながら熟して倦みきった果実のように、木から落ちるのを待つばかり。 あごを乗せた両腕に汗が伝い、髪がひとすじ零れて触れた。 くすぐったさに首を動かし、おのれの肩口に顔を埋める。 この国に来て、好きになったのはハマムだけ。 ぽつりと呟いたツイーを、女は笑ったようだった。 |